貞氏の喪中にもかかわらず出陣を命じた幕府に高氏は反感を抱きます。
この戦いで後醍醐天皇は捕らえられ廃位となり隠岐島へ配流となりました。
しかし、
「これしきで朕は諦めるものか…」と後醍醐天皇は機会を狙っています。
河内国の赤坂城で交戦していた楠木正成は
「今はこれまで。次節を待とう」
と逃亡しました。
戦いが終わって高氏は他の大将らを置いて朝廷に挨拶もせず、さっさと鎌倉へ帰ってしまいます。
この出陣で高氏は何か感じるものがあったのでしょう。
「幕府を倒す時期が来ているのではないか…」
天皇の位は持明院統の光厳天皇が即位していましたが…
1332年、楠木正成は千早城で再び兵を挙げ、また後醍醐天皇の皇子・護良親王も吉野で挙兵しました。
そして1333年、後醍醐天皇は隠岐島を脱出し伯耆国・船上山に入り討幕の綸旨を発しました。
幕府は再び足利氏に出陣を命じます。
高氏の意は既に決していたのでしょう。
「さらば北条の方々…」と内に秘め鎌倉を出発します。
そして……
高氏は後醍醐天皇からの討幕の綸旨を受け…
丹波国篠村で反幕府の兵を挙げました。
「敵は京・六波羅、北条軍なるぞ!」
ついに足利氏が北条氏に対し戦いを挑みました。
鎌倉幕府開設以来、源頼朝や北条氏に対し我慢していた足利氏でしたが、滅ぼされることなく勢力を保って時代を生き抜き…
ここに足利氏が起ったのです。
高氏は京の北条軍を倒し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉へ進軍しました。
この新田の陣に高氏の子・千寿王(後の足利義詮)が参陣します。
そして…鎌倉は新田軍に制圧され鎌倉幕府は滅亡しました。
高氏は後醍醐天皇より諱を頂き、足利尊氏と名乗りました。
この後、後醍醐天皇の建武の新政は武士に受け入れられず、尊氏は天皇に叛きます。
尊氏は持明院統の光厳院を掲げ、後醍醐天皇と戦います。
ついに京に幕府を開き征夷大将軍となりました。
「ついに祖父・家時公の遺言、天下を取れを果たしたぞ!」
生き抜いた足利氏は新たな戦いに突入していきました。
生き抜く足利 完


