足利家時は北条時茂の娘を正室に迎えており、1274年家時が14歳の時に男子を儲けます。
この男子が後の足利貞氏です。
同じ年に美作国の所領を巡って高野山金剛三昧院と訴訟となり争ったが、1279年に敗訴となり所領を失いました。
この敗訴で家時は幕府に対し批判的になります。
1282年、家時は伊予守に補任されます。
足利氏は幕府から高待遇を受けていました。
蒙古襲来の弘安の役の後、幕府は戦後の恩賞問題や3度目の蒙古襲来への備えなど、問題が山積みでした。
そんな中、執権・北条時宗は1284年、自らの死期を悟ったのか出家し、その後亡くなりました。
時宗の生涯は蒙古襲来の戦いに命をかけた生涯でした。
時宗亡き後、後を継いで執権になったのは時宗の子・北条貞時でした。
この時、貞時は12歳。
貞時を支えていたのは貞時の外戚で有力御家人の安達泰盛と北条得宗家の被官(御内人)の平頼綱です。
しかし、泰盛と頼綱の対立が起き、足利氏も巻き込まれていきます…。
つづく…
