生き抜く足利 〜二月騒動と蒙古襲来〜 | 歴史を感じよう

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1268年、大陸の巨大国・蒙古(元)クビライカアンから服従を求める内容の文書が鎌倉に来ました。

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クビライカアン


幕府では蒙古への対応するため、18歳となっていた北条得宗家の北条時宗が執権に就任します。

この頃、時宗の異母兄・北条時輔は京の六波羅探題南方に出向いましたが、1270年に南方の上位にあたる北方の北条時茂が亡くなりました。

その後、後任が空いたままで六波羅探題では時輔の力が大きくなります。


一方で北条得宗家に次ぐ勢力を保っていたのが名越流北条氏です。
1246年に起きた宮騒動北条光時らが処罰されましたが、光時の弟、時章と教時は処罰からは逃れていました。

名越流北条氏は反得宗でした。


足利氏は当主に足利家時が付いたばかりでした。
北条時輔は前当主の足利頼氏が烏帽子親を務めた縁があり、繋がりがあったのではないでしょうか…

1272年、時宗は名越流北条氏の時章、教時を得宗転覆の謀反の罪で討伐しました。

さらに京では新たに六波羅探題北方に就任した北条義宗が時宗の命で時輔を討ちました。


これを二月騒動といいます。

得宗転覆の謀反には京に帰っていた前将軍・宗尊親王が関わっていたようです。

足利氏自体は何の処罰もなかったのですが…足利氏の分家・渋川義春が佐渡へ流罪となっています。


足利氏はやはり何かしら関係していたと思いますが、はっきりとはわかりません。



二月騒動により反得宗勢力を一掃したことで得宗独裁体制が強化され、時宗は蒙古への対応に向かっていきました。



その後、二度の蒙古襲来(文永の役、弘安の役)ありましたが、苦戦はしましたが日本側は勝ちました。

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文永の役



この蒙古襲来での戦いは九州の武士らが対応し、足利氏は出ていないようです。




つづく…