頼氏と正室・北条時盛の娘との間には子が生まれませんでした。
後を継いだのは側室・上杉重房との間に生まれた足利家時です。
北条氏の娘以外に生まれた男子が足利氏の当主になるのは二代目・足利義兼以来のことでした。
しかし、頼氏が亡くなった時、家時はまだ幼少で、とても当主は務まりません。
そこで…
当主を代行したのが、頼氏の兄・足利家氏でした。(家時には叔父にあたります。)
この頃、北条氏でも入れ替わりがありました。
北条得宗家・北条時頼が1263年に亡くなり、翌1264年には6代目執権・北条長時が病のため執権職を辞して出家、その後、亡くなりました。
7代目の執権には北条泰時の弟・北条政村が付きました。
この時、時頼の嫡男・北条時宗はまだ14歳、経験を積むためでしょうか、執権を補佐する連署に付きました。
同じ年に時宗の異母兄・北条時輔は鎌倉を離れ京の六波羅探題南方に任じられました。
これは反得宗家が時輔を担いで対抗するのを阻止するために鎌倉から遠ざけたとの説があります。
1266年、将軍・宗尊親王が謀反の嫌疑をかけられ将軍職を解任、京へ送還されました。
次の将軍には宗尊親王の子・惟康親王が付きました。(この時、惟康親王はわずか3歳でした。)
足利氏では当主の代行をしていた家氏が亡くなります。(亡くなったのは1266年から1269年の間ではっきりしません。)
家時が名実共に足利氏の当主となりました。
人の入れ替わりの後…時代はまた騒がしくなっていきます。
つづく…
