さらに6月にはこれまた北条時頼の妹で将軍・藤原頼嗣に嫁いでいた檜皮姫も亡くなりました。
前年には前執権・北条経時が亡くなっており、立て続けに北条得宗家の身内が3人も亡くなっています。
これは本当に病死だったのでしょうか…?
執権・時頼は三浦氏との和平を望んでいました。方や、三浦氏の当主・三浦泰村も同じ考えです。
しかし、両陣営とも強硬派がいました。北条方には安達氏が強硬派でした。
安達氏としては三浦氏の風下に置かれることが我慢なりませんでした。
そして…ついに合戦となります。
時頼が和議をしようとしていたが安達氏が和議の使者を出し抜いて三浦氏の館を奇襲したのです。
三浦泰村は驚き、館を固め籠城しました。これに三浦氏に味方する御家人が集まります。
合戦に引きずり込まれる形になった時頼はここに至って三浦泰村討伐を命じます。
合戦はやがて北条方の火攻めで三浦氏の館は焼け、三浦一族は法華堂へ向かいます。
(法華堂は源頼朝の墓所があります。)
法華堂で三浦一族と与党500余名は自刄し果てました。
三浦氏の与党で上総国にあった千葉秀胤は北条方の追討軍と戦い、敗れ自害しました。
この合戦を「宝治合戦」と言います。
「宝治合戦」で足利氏は北条方に付いて戦いました。
その恩賞で千葉秀胤から没収した上総国を支配下に納めました。
足利氏の所領はさらに拡がりました。
しかし!
宝治合戦から4年後、足利泰氏が突如として出家していまいます。
つづく…
