1244年、頼経の動きに危険を感じた四代目の執権・北条経時は頼経を将軍の座から引きずり下ろし、頼経の子・藤原頼嗣を将軍にしました。
(この時、頼嗣はわずか6歳)
ところが……
経時は重病となり1246年に弟・北条時頼に執権職を譲り、1ヶ月後亡くなります。
まだ23歳の若さでした。
経時の死を好機と見た反執権勢力の名越流北条氏の名越光時は頼経や反執権勢力の御家人らと時頼打倒を画策しようとします。
…しかし、時頼は
「光時らより先に動く!甲冑を付けた武士が鎌倉に集まっていると噂を流せ!」
さらに鎌倉と外部との連絡を遮断しました。
これで頼経・光時らは混乱し陰謀が発覚したと悟り、降伏しました。
藤原頼経は鎌倉から追放、京へ戻り、名越光時は伊豆へ流されました。
この騒動を宮騒動といいます。
宮騒動で注目されたのが頼経の将軍派だった大豪族・三浦氏の動きでしたが、三浦氏は執権・時頼に付きました。
しかし、三浦氏の当主・三浦泰村は北条氏に反抗の意志はなかったが、弟・光村が反北条の強硬派でした。
光村は藤原頼経が京送還される際、
「今一度鎌倉へお迎えします。」
と涙ながらに語りました。
そんな不安定な時が過ぎ、1247年、時頼の妹である足利泰氏の正室が亡くなりました…
つづく…
