その後を継いだのが北条泰時でした。
さらに翌年の1225年には源頼朝の正室であり、頼朝亡き後、幕府を支えてきた北条政子が亡くなります。
幕府創設以来の2人を失った泰時でしたが、独自の力を発揮できることになりました。
「今までは叔母上(政子)が何かと干渉してきたが、これからは私のやり方で取り組んでいくぞ」
泰時は力を発揮し、将軍独裁ではなく、合議制な執権政治を行いました。
足利義氏の正室は泰時の娘でした。
この間に生まれたのが足利泰氏です。
泰氏は長男ではなかったのですが、足利氏を継ぐ嫡男となります。
義氏がそうであったように、北条氏の娘との間に生まれた子を嫡男にしていました。
義氏は「承久の乱」でも泰時に従い、泰時との関係は密接だったと思われます。
1226年、三代将軍源実朝亡き後、鎌倉殿として京より迎えられていた三寅(摂関家の子)が元服し藤原頼経と名を改め、征夷大将軍に就任しました。
(なんと!この時、頼経は8歳です。)
足利泰氏は1236年には丹後守、1237年には宮内少輔となり、将軍・頼経に仕えることになります。
そして…1241年、義氏は出家し、足利氏家督は泰氏が引継います。
しかし…この後、順風満帆だった足利氏を揺るがす出来事が起きます。
つづく…

