この頃の北条氏は北条時政が執権として勢力を拡大し、軍事力では三浦氏や畠山氏に対抗するほど持ってきました。
(執権は将軍を補佐し政務を統轄しました。)
義氏は北条氏を外戚として頼っていたのでしょう。
しかし、その北条氏でも内輪揉めが起こり、北条時政が子である北条政子と義時に追放されてしまいます。
1205年、時政は継室・牧の方との間にできた娘の婿・平賀朝雅を将軍に付けようとしましたが、政子、義時に阻まれて伊豆に追放になりました。
(これが牧氏事件)
この時の足利氏の動きはわかりませんが、
「北条氏でも内紛が起きるとは。いやいや、何が起きるかわからないや。」
と義氏は静観したのでしょう。
その後、時政の後の執権には北条義時が付きました。
1213年に名門御家人・和田義盛と北条氏が衝突した和田合戦が起きます。
足利義氏は北条氏に付き戦いました。
義氏は和田方の武将で勇将名高い朝比奈義秀と激戦を演じました。
しかし、義氏は義秀には敵わないとみるや逃げようとしました。
義秀は鎧の袖を掴み、逃がすまいとしましたが、義氏は鎧の袖を引きちぎられながらも馬上での技が達者なため落馬せず見事逃げ切りました。
和田合戦は北条方の勝利に終わります。
義氏は和田合戦で武名を上げました。
つづく…

