頼家は政務を自らの独断的判断で行いました。
鎌倉幕府は鎌倉殿(将軍)と御家人の「御恩と奉公」と呼ばれる互恵関係で保持されていました。
よって頼家の独断的判断は御家人から反発を招きます。
御家人らは十三人の合議制をしき、頼家の独断を抑えました。
(訴訟を十三人の有力御家人で合議し決定する体制)
合議制の中心は北条氏でした。
おもしろくないのは頼家です。
「俺は将軍だぞ!俺が決めてなぜいけないんだ⁉︎」
この十三人の合議制の中に足利義氏は入っていませんでした。
義氏はまだまだ若年であったからです。
しかし、十三人の合議制に入ってなかったことが後に足利氏にとっては幸いします。
この合議制は有力御家人の集まりですが、意見の対立し氏族を識別し敵味方を色分けすることになったのです。
専制を画策する北条氏にとっては合議制が判断材料になりました。
この後、幕府創設の功労者の一人であり将軍の側近である梶原景時が一族もろとも討たれ滅亡します。
さらに頼家の後ろ盾である比企能員が北条時政の謀略により討たれ比企一族も滅亡さします。
味方を失った頼家は母・北条政子により出家、伊豆の修善寺に押し込められました。
その後……
頼家は北条氏により殺害されました。
この時期、足利氏は安泰だったようです。
頼家の後、三代目の将軍となったのは頼家の弟・源実朝です。
つづく…

