頼朝の挙兵より4ヶ月経った頃で「富士川の戦い」で平家を敗走させ、さらに常陸の佐竹氏に勝ち頼朝の勢いは増していました。
そんな頃に参じてきた義重を頼朝は
「坂東武士で同じ源氏でありながら俺と平家を計りにかけるとは…」
と不信感いっぱいだったでしょう。
足利氏としては平家政権では小領主に落ち耐えていたところに頼朝の挙兵があり、これに掛けたといったところだったでしょう。
義兼には2人の異母兄がいました。義清と義長です。
2人は京で後白河院の姉・上西門院に仕えていましたが、源義仲が上洛してくると義仲の麾下に入ります。
しかし、義仲軍と平家軍の戦い「水島の戦い」で2人とも討ち死にしました。
義兼は2人の兄の死、時子との結婚で名実共に足利氏の嫡男となりました。
その後、義兼は義仲の子・義高残党の討伐で戦功を上げます。
さらに頼朝が京へ送った軍勢では頼朝の弟・範頼の軍に入り、平家討伐でも戦功を上げました。
この戦功により義兼は頼朝に上総国の国司(上総介)に推挙され、1185年上総介に任じられます。
この後に起きた1189年の奥州合戦にも従い、奥州合戦後の1190年に起きた奥州藤原氏残党が起こした「大河兼任の乱」では追討使に任じられ、乱を平定します。
まさに義兼は大活躍でした。
しかし義兼は出家します…。
つづく…
