後白河院は「義経と行家を捕らえよ」との院宣を諸国へ下します。
1185年12月源頼朝は諸国に「守護・地頭」の設置を朝廷に認めさせた。
義経らを探索するためと称して後白河院に認めさせたのである。
※守護とは国司の下で国内の鎮護を任された軍事指揮官。
地頭とは荘園、公領を管理支配するために設置した職。
頼朝の目的は守護・地頭の設置により強力な政権を造ることでした。
1186年5月行家は捕らえられ斬首となりました。
義経は山伏に身を変えて1187年2月には奥州平泉の藤原秀衡の元へ入りました。
秀衡は義経を将軍に立て鎌倉に対抗しようとしましたが、10月に病没します。
後を継いだ秀衡の子・泰衡に頼朝は朝廷を通じて義経を捕縛するよう圧力をかけました。
そして…1189年4月泰衡は圧力に耐え切れず、ついに義経が住む衣川の館を奇襲します。
義経らは僅か10数騎しかおらず、ことごとく討たれ義経は抵抗せず持仏堂に篭り…自害しました。享年31歳。
頼朝はついに義経を死に追いやりました…。
つづく…

