一旦はですが…
ただ、生き残った為義の子はいます。先のブログで書いた源為朝、源義範(後の志田義広)や、後の源行家です。
為朝は流刑でしたが、義範は義朝にも為義にも付かずの立場だったようです。
行家はまだ幼少でした。
さらに木曽には義朝の弟の故・義賢の息子・義仲がいます。
義朝への恩賞は実は破格なものでした。
院近臣の大物が任じられる左馬頭の官職を得て、さらに殿上人となりました。
(殿上人とは天皇の居所清涼殿の殿上間への立ち入りを許された者のこと)
五位の位であった義朝が殿上人とは破格の恩賞でした。
源義家も殿上人になりましたが義家の場合は院の昇殿を許された者で天皇の昇殿を許された義朝は河内源氏初の快挙でした。
しかし、義朝は不満でした。
平清盛は播磨守となり、後には太宰大弐にも任じられます。さらに清盛一族にも官職が与えられました。
「たいした功績もないのに!」
義朝は不満いっぱいだったでしょう。
ただ清盛は乱の前より正四位下安芸守で殿上人だったので、それより格上の官職に任じられるのは当然でした。
さらに崇徳院派と見られていたが一門で後白河天皇派に転身したことが恩賞に繋がったのです。
それでも義朝は不満でしょう。
「俺がもっともらうべきじゃないのか⁈なぜ平氏ばかりに!」
義朝は勅命とはいえ、父や弟らを切っているのです。
世の人々からは「親の首を切った」と誹りを受けました。
この恩賞を取り仕切っていたのが、信西でした。
義朝は信西と縁を結ぼうと信西の子を婿にと申し出ましたが、断われます。
しかし、清盛から同じ申し出があり、それは受けています。
義朝の信西へ対する怨みは恩賞のことも合わせて増すばかりでした。
そんな義朝に近づいたのが「藤原信頼」でした。
つづく…