争う一族 〜悲情〜 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

1156年7月、乱の後、敗れた崇徳院側の武将らの処罰は厳しいものでした。

公的に行われた死刑が約300年ぶりに復活したのです。

7月28日に平清盛が叔父・平忠正を斬りました。
清盛は自らが忠正を斬れば源義朝も父・源為義を斬るしかなくなるだろうと陰謀を図りました。

清盛にとって忠正は以前より不仲でしたので躊躇なく斬れたのです。(大河ドラマ「平清盛」で画かれたような仲ではなかったのです。)

この死刑を勧めたのが後白河天皇の側近である信西でした。
乱における信西の手腕は大きく振るわれたのです。

義朝は自らの戦功に変えて父の助命を訴えましたが、信西によって却下されました。

義朝は身が引き裂かれる思いだったでしょう。
対立していたとはいえ、このような結果になるとは…

30日義朝は父・為義と弟らを斬首にしました。


ただ一人逃亡していた源為朝は、8月26日に温泉で養生しているところを発見され捕らえられました。
さすがの為朝も丸腰では何もできなかったのです。

為朝は死刑になるところを武勇を惜しまれて減刑になり、伊豆大島に流刑となりました。

しかし、為朝は伊豆大島に流されても暴れん坊でした。

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源為朝




つづく…