源義朝、平清盛らも帰還し戦闘は終わりました。
逃亡していた崇徳院は出頭しました。(連載「悲劇の上皇」も参照お願いします。)
藤原頼長は矢が刺さる重傷を負いながら南都に逃げ延びました。南都に逃げていた父・忠実の元に来ましたが、忠実は拒否します。
忠実は乱と無関係を主張するにはこうするしかなかったのです。
頼長はやがて亡くなりました。
源為義は息子たちと東国を目指して再起を図ろうとしますが、
「義朝が助けてくれるはず。義朝の元へ行こう。」
と望みを持ち投降します。
しかし為朝は為義の行動を反対し、行動を共にせず逃亡を続けました。
こうして崇徳院の出頭により、崇徳院側の貴族、武士らの投降が続きます。
崇徳院は讃岐国に流罪となりました。そして二度と京の地を踏むことはありませんでした。
崇徳院側の貴族の多くは流罪、藤原忠実は子の忠通が奔走したおかげで罪には問われませんが、洛北知足院に幽閉されました。
そして武士への処罰は厳しいものでした…それは処刑です。
つづく…
