各方面が慌ただしくなりましたが、注目されたのが平清盛の動向です。
崇徳院陣営は藤原摂関家の私兵ばかりでした。清盛の父で亡き忠盛(忠盛は1153年に亡くなっています)が崇徳院の子・重仁親王の乳父母でした。崇徳院陣営は清盛が付くことを期待しました。
しかし忠盛の妻・池禅尼は崇徳院側の敗北を予想し実子で清盛の弟・頼盛に清盛に協力するように命じました。
これにより清盛は後白河天皇側に付きます。
(ただし、叔父・忠正は崇徳院に付きました。元々忠正は摂関家の家人で、忠盛との仲は不和でした。)
これによりこのような対立の図式になります。
後白河天皇側
藤原忠通・源義朝・平清盛・源義康、等々
崇徳院側
藤原忠実、頼長・平忠正・源為義、等々
源為義には義朝以外の子が付きます。その中には為朝もいます。
7月11日両陣営とも軍議が開かれました。
崇徳院側では為朝が夜討ちを進言します。しかし、藤原頼長が
「夜討ちなど小勢がやる戦、国争いは正々堂々とやらねばならない。明日には味方の兵が集まる」と反対します。
「なんてことだ!戦のことは武士に任せてもらいたい!兄・義朝は夜討ちを仕掛けてくるはず!」と為義は怒りますが、夜討ちは却下されました。
一方、後白河天皇側では清盛と義朝が天皇の御前に呼び出され作戦会議を行います。
義朝は夜討ちを進言します。(為朝の読みは当たっていました)
この作戦を強行に賛成したのが後白河天皇の乳父母・信西でした。
奇しくも両陣営とも夜討ちの策が出て、一方では却下、一方では採用と分かれました。
そして開戦します。
つづく…
