義朝は東国に勢力を伸ばし京の武者として地位を固めました。
先に為義が東国へ送った次男・義賢は義朝の力の及ばない北関東・上野国多胡荘を本拠としました。
義賢は武蔵国の武士・秩父重隆の娘を娶り武蔵国大蔵に館を構えました。
秩父氏は内部抗争をしており、重隆の反勢力と結んだのが義朝の長男・義平でした。
義朝は東国では鎌倉に館を構え、相模国一体を地盤としました。その地盤を受け継いだのが義平です。
上野・武蔵から南下して勢力を伸ばそうとする義賢・重隆、相模から北上する義平。
両者の対決は避けられないものとなっていました。
1155年8月義平の軍勢は武蔵国の大蔵館を襲撃し、義賢・重隆を討ち取りました。
この時、義平はまだ15歳、
「父上が目障りな義賢など俺が葬ってやったわ!東国は父・義朝のものだ!」
この戦いで義平は武名を上げ「鎌倉悪源太」と呼ばれます。
討たれた義賢には子・駒王丸がおり、この時2歳。駒王丸は信濃国の乳母父・中原兼遠のもとへ逃がされました。
この駒王丸が後の「源義仲」です。
後に起こる争いのタネは既に生まれていたのです。
つづく…
