院は白河院の名ばかり出ていましたが、白河院がずっと生きていた訳ではありません。
白河院は天皇を退き、1087年、子の堀河天皇が付きました。
堀河天皇が若くして崩御した後、1107年、堀河天皇の子・鳥羽天皇が付きました。
鳥羽天皇はわずか5歳で即位しましたが、政務は祖父・白河院が取りました。
鳥羽天皇と白河院の養女・藤原璋子の間に5男2女が生まれました。
1123年、その長男を鳥羽天皇の後に即位しました。これが崇徳天皇です。(崇徳天皇は白河院と藤原璋子との間にできた子の説があります。ブログの「悲劇の上皇」シリーズも参照お願いします。)
白河院は院政を敷いていましたが、1129年崩御します。
その後、院政は鳥羽院が行いました。
藤原摂関家は1099年、藤原師通が急死。子の忠実が継ぎますが、22歳の若さで関白にはなれず内覧どまりでした。
(内覧とは天皇に奉る文書や天皇が裁可する文書など一切を見る役職)
忠実は政務未熟で白河院の怒りを買ったりしました。
関白になれたのは1105年、堀河天皇の時です。
この後も失態が続き1121年、関白を退き子の忠通が任じられます。
その後、宇治にて10年におよぶ謹慎をします。(この謹慎の時期に後に悪左府と呼ばれる頼長が生まれます。)
白河院崩御の後、鳥羽院の院政時に政務復帰し、内覧に任じられます。
その頃、関白は忠通が続けています。
この院と摂関家の争いに河内源氏も巻き込まれていきます。
つづく…

