争う一族 〜不祥事続出の為義〜 | 歴史を感じよう

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日本史について感じたこと、調べたことを連載形式で書いていきます。また、神社やお寺、史跡巡りしたこと、プロレスについても書いていきます。わが愛犬てんのことも語っていきます。そして…「オイラ、えいたろうの相棒のコアラだよ。是非読んでね。」

1109年、義忠暗殺事件により、河内源氏の当主となったのは源為義でした。当時、わずか14歳。

義忠暗殺の嫌疑をかけられた義綱一族の追討の功で左衛門少尉に任じられました。

最初は白河院との関係が深く、寺社による強訴に対して、伊勢平氏・平忠盛と並んで院を守護する武力として動員されていました。

また為義の最初の妻は白河院の近臣・藤原忠清の娘で、その間に長男・義朝が生まれています。

1124年には検非違使に任じられます。

しかし、忠盛が国守に任じられるのに対し、為義は検非違使のままの状態が続きます。

「忠盛は国守になれたのにワシはいつまで検非違使なんじゃ?」と為義は愚痴っていたかもしれません。

しかし、原因は為義自身にありました。

為義本人と郎等の不祥事が続出していたからです。

詳しく書くとブログ2回分くらいになるので、簡単に言うと、

為義が犯罪者を匿ったり、郎等による狼藉行為が続いたりと院や朝廷から信任を失っていきます。

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源為義


犯罪者らから
「為義なら助けてくれるから、為義のところ行こうぜ」と甘く見られていたのでしょう。

わずか14歳で当主になり、周りに為義を手助けする、あるいは叱咤激励する人物がいなかったのも、為義の不幸でした。


1136年、左衛門少尉を辞任しますが、解官つまりクビだったと思います。

院の信任を失った為義は、藤原摂関家に近づいていきます。



つづく…