翌1108年1月正盛は出雲国に到着、そして義親を討ち取ってしまいました。
正盛が出陣して、わずか1カ月。こうして義親の乱はあっけなく鎮圧されました。
戦の詳細は伝わっていませんが、義親は城に立て篭り、正盛は攻め立て討ち取ったとされています。
正盛は1月末には義親の首を掲げて京に凱旋しました。白河院は喜び、凱旋行列を見物しに行きました。
しかし、剛勇で知られた義親がさしたる武名もなかった正盛にあっけなく討たれたことに疑問を持つ者が多かったようです。
そして義親生存しているとの噂が流れました。
事実、義親と名乗る者が現れました。
義親があっけなく討たれたのは、正盛が攻め来る前に義親に異常事態があったのではないでしょうか?
既に病に侵されていた?白河院が義親を恩赦するという偽りを伝え義親を安心させていた?いや義親は既に死んでいた?
全ては闇の中ですね。
しかし、義親が対馬守に任じられたことから白河院の河内源氏の力を削ぐ策略があったと考えられます。
(それまでは源氏は東国に勢力があり、河内守や陸奥守に任じられていました。)
義親が亡くなり、義忠が当主となりましたが、さらに河内源氏の争いは激しくなります。
つづく…

にほんブログ村
