源義綱は「俺も呪われる~」と恐れたのではないでしょうか。
義綱を政治的に保護してきた藤原摂関家の弱体により不遇の時代を迎えます。
かつて白河院の近侍を務めていましたが今さら白河院に擦り寄ることもできませんでした。
※天皇を辞したら上皇、さらに上皇が出家すると法皇と呼び名が変わりますが、ここではややこしいので上皇も法皇も院の呼び名で統一します。
その頃、義綱の兄・義家はどうしていたのでしょう?
師通が亡くなる前年の1098年正月、義家は陸奥守時代に未納であった官物をようやく完済しました。
そのこともあり4月には正四位下に叙せられ、義綱を引き離し、父・頼義の位と並びました。
これには白河院の意向があったと思います。義綱が摂関家に接近するのに対抗すべく院に近い義家を持ち上げたのでしょう。
さらに同年10月には義家に院御所における昇殿を許したのです。いわゆる「殿上人」に義家はなりました。
院の殿上人ですが、これは白河院の側近という意味でした。
その翌年に師通が亡くなったのです。
義家と義綱の立場は再び逆転しました。
「長かった…これで義綱から河内源氏の嫡流を奪い返したぞ。師通が亡くなり義綱はもう上がってくることはあるまい!」
義家は不遇の時代を耐え、ようやく日の目を見ましたね。
しかし、義家の院昇殿には公卿の間で反発もあったようです。それを強引にやってのけたのが白河院でした。
但し、義家はその後どこの国守にもなることはありませんでした。
この後、義家をさらに悩ませることが起きます…。
つづく…

にほんブログ村
