その頃、陸奥国の隣、出羽国で出羽守・藤原信明が豪族・平師妙らに襲撃され殺害されました。
義綱は平師妙らの追討を命じられます。義綱は自身の郎等を派遣しますが、郎等はたちまち賊徒を捕らえました。
これには奥羽の覇者・藤原清衡の支援があったと思います。
この功により義綱は従四位上・美濃守に任命されました。従四位上は義家と同じ位で兄と肩を並べました。
同時期、藤原摂関家では藤原師実から子・師通に関白を譲渡、就任します。
摂関家と密接な関係をしている義綱の権威は増大します。
当時、関白・師通は堀河天皇を補佐しながら白河上皇を排除し強力に政治を進めていました。その師通に近い義綱は河内源氏嫡流を義家から奪い取ったのです。
「兄・義家もなれなかった美濃守になったんだ。これで俺は河内源氏の棟梁だ!」
義綱は栄光の絶頂です。
師通は
「源氏の力も利用してわが摂関家が政治を仕切る!白河院に渡してなるものか!」と内心思っていたのかもしれません。
しかし、絶頂期は長く続きません。
1095年、美濃守になった義綱に事件が起きます。
美濃にある延暦寺の荘園が不法とされ、朝廷から収法(領地を没収)を義綱は命ぜられます。
この時、寺側と小競り合いとなり1人の僧が流れ矢に当たり亡くなりました。これにより延暦寺・日枝神社は義綱の配流を求めて朝廷に強訴してきたのです。
元々の原因は延暦寺の不当な荘園設置であり、理不尽な強訴に対し、関白・師通は断固たる対応をします。
義綱と大和源氏の源頼治を派遣し撃退しました。この時、矢が神輿や神人に当たり死傷者が出ました。
さらに憤激した延暦寺・日枝神社は朝廷を呪詛します。(怖っ~~…)
「師通に仏罰を!義綱に仏罰を!」とでも呪ったのでしょうか。
この事件から4年後、師通が急死してしまいます。
朝廷は延暦寺・日枝神社の呪詛だと恐怖しました。
そして義綱は美濃守の任期が切れた以後、どこの国守になることはありませんでした。
師通の後継者・忠実は若年で政治力もなく摂関家は弱体していきます。これにより摂関家に近侍していた義綱も没落していきます。
つづく…

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