一方、大敗した国府軍・源頼義は関東・東海・畿内に働きかけ兵力の増強に努めます。
1062年春、頼義は陸奥守の任期が切れます。後任に高階経重が着任しますが、郡司らが経重に従わず頼義に従いました。
朝廷は経重を解任、頼義を再任しました。
混乱しているのに戦を知らない貴族に押さえることができるものかと郡司らは思ったのでしょう。
苦戦続きの頼義は仙北三郡の豪族・清原氏に参戦を依頼します。
清原氏の族長・清原光頼は最初は中立を保って参戦を断ってしました。
しかし頼義は再三依頼しました。贈物を続け参戦を依頼したとも、臣下の礼の形を取って依頼したとも、朝廷の命令を楯に参戦を強要したとも言われています。
1062年7月光頼は参戦をします。
光頼自らは参戦せず弟・武則を大将とした軍勢を送りました。
これで国府軍の兵力はおよそ1万といわれています。
つづく…

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