明治に入った直後の戊辰(ぼしん)戦争で、東北は悲劇の舞台になった。
薩長の新政府軍に対して、東北の31藩が奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟と呼ばれるものを組んで戦った。
いわゆる「賊軍」の立場だ。
私が回った東北の殆どがこの同盟に加わったが、角館がある秋田(佐竹藩)は参加しなかった。
そのため秋田は四方から攻められることになった。
しかし、同盟軍は遂には敗れた。
その後も東北は、逆賊がいるところとして薩長政府からさげすまされた。
それを言い表した言葉がある。
「白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん)」
白河とは福島の南端で、東北への入り口。
それより北、つまり東北は、ひとつの山でも百文の値打しかない、というわけだ。
戊辰戦争のとき、その東北で最後に降伏したのが盛岡の南部藩だった。
その南部藩では、この戦争が始まる10年ほど前に一人の男の子が生まれていた。
その子は薩長に対する怨念を持ち続け、いつか見返してやりたいと思っていた。
大人になってから、そのバカにされた「一山」という言葉をわざわざ雅号として名乗った。
その子は後に首相になった。
それが原敬(はらたかし)。
明治から大正にかけて支配的だった薩長の藩閥政治の後、首相になったのだ。
逆賊の子で、一介の新聞記者だった男が首相になったのだ。
だから人々は原敬を「平民宰相」と呼んだ。

原は首相になる前の年、戊辰戦争の犠牲者のために50年祭を開いた。
そのとき、こんなことを言った。
「戊辰戦争に賊も官もない」と。
盛岡を賊軍とする見方を拭い去ろうとしたのだ。
その原は首相になった後、東京駅で刺し殺されてしまった。
その背景には謎があるようだが、刺客個人の政治的不満と見ていいようだ。
それから原敬の遺骸は盛岡に戻った。
このあたりで戊辰戦争はようやく終わった、と司馬遼太郎は書いている。