「エミリー、驚かせてごめんね。

 この部屋は、僕がまだ若く未熟だった時代に暮らした部屋なんだ。このピアノは僕がまだ、ピアニストを志していた時に使っていたピアノなんだ。

そう、君には話していなかったけど、僕も昔、ピアニストを目指していた。

僕は母からピアノを習い、学生の時には本気でピアニストを目指せるくらいの技術を身につけていた。

だけど、僕は自分の不注意で事故に遭い、満足に左手を動かせなくなった。医者にピアノは弾けるようになりますかと聞くと、医者はため息混じりに首を振った。

それは僕から夢を奪った瞬間だった。

僕は部屋に戻り、何晩も泣き明かした後、一つの考えに辿り着いた。

母を思い返した。

僕にピアノを教えてくれた優しい母に、僕がなればいいんだ、と。

僕はこれから自分に子供が出来ればピアニストになってもらおうと決めた。

可笑しいだろ?

まだ、君のママにさえ出逢っていなかったのに。

それから職を探しにロンドンに行くまでの間、無傷の右手でキャンバスに向き合い、空想で浮かんだあの絵を描きあげた。元々手先が器用だった。

やがて、ロンドンで働いてる時に、女神のような君のママに出逢い、宿命的に恋に落ちた。そして、奇跡的に結ばれて、君が産まれた。

君が女の子だと分かった時、僕がどれくらい喜んだか想像出来るかい?

空想で描いたピアニストは女の子だったからね。

君が大きくなり、僕らはピアノを買った。

しかし、君も憶えてるだろうけど君はピアノがあまり好きではなかった。鍵盤の音を聴いただけで、泣き噦るくらい。

僕は君が学校に行っている時に、物置の奥に置いていた絵を取り出した。そしてピアノの上の壁に飾った。何らかの変化を期待した。

君は学校から帰ると不思議そうにその絵を見ていた。

だけどママに言わせると、その君を見ている僕の方が不思議な顔をしていたらしい。きっと様々な想いが交錯したんだろう。

あの絵を飾ってから、君は取り憑かれたようにピアノに向き合った。君の前では怒ってばかりいたあの先生も、日々成長する君の腕に目を丸くしていたよ。

ある時、君はパパに言った。

「あのお姉ちゃんみたいに気持ちよさそうに弾きたい」

視線の先には、僕が描いた絵があった。

その時、僕は君の頭を撫でながら、どうするものか考えていたんだ。

君の視線は、あの絵を超えた場所に無ければいけなんだと。

あの絵を目標にしては、君の進化にブレーキをかけてしまうかもしれないと。

ごめんよ。

僕は君に嘘をついて、あの絵を物置に仕舞ったんだ。

君が僕を問い詰めた時、僕は父親失格だと思った。

しかし、その判断は今では正しいと言える。

君は自分から、目標をその先に見据えた。その努力の結果が、今の君だ。

少しくたびれて来たよ。

エミリー、君は世界最高のピアニストだよ。これから、君に素敵なフィアンセが現れ、君にも可愛い子供ができたら、是非、ピアノを教えてあげて欲しい。

そして、夢破れた君のおじいちゃんが守り続けたこのピアノと音色を大切につなげて欲しいと。

未来へ。

あの絵は、ママがロンドンで今も大切に守り続けているよ。

Ps.事故には気をつけるように。まだ君は僕の夢の途中にいるんだから」

 

エミリーは鍵盤を開く。

その古びた鍵盤を叩いたのは、彼女のしなやかな指先では無く、大粒の涙だった。