ノーマン・ジュイソン『夜の大捜査線』 | What's Entertainment ?

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1967年のノーマン・ジュイソン監督『夜の大捜査線』(原題『In the Heat of the Night』)。


35mmの夢、12inchの楽園
35mmの夢、12inchの楽園


製作はウォルター・ミリッシュ、原作はジョン・ポール『夜の熱気の中で』、脚本はスターリング・シリファント、音楽はクインシー・ジョーンズ、主題歌はレイ・チャールズ「イン・ザ・ヒート・オブ・ザ・ナイト」、撮影はハスケル・ウェクスラー、編集はハル・アシュビー。配給はユナイテド・アーティスツ。
なお、第40回アカデミー賞において本作は作品賞、ロッド・スタイガーは主演男優賞、スターリング・シリファントは脚色賞、サミュエル・ゴールドウィン撮影所サウンド部は音響賞、ハル・アシュビーは編集賞を受賞している。


こんな物語である。

ミシシッピ州の田舎町スパルタの夏は長く、夜ともなれば蒸し暑い熱気に町はむせ返る。ここは、南部でもひと際人種的にタフな地域。
夜のパトロールに出た警官サム・ウッド(ウォーレン・オーツ)は、町の大物実業家フィリップ・コルバートの撲殺死体を発見する。慌てて駆けつけた署長のビル・ギレスピー(ロッド・スタイガー)は、捜査の陣頭指揮に立つ。容疑者として、サムは電車のなくなった駅にいた黒人の男を引っ張って来る。しかし、男はフィラデルフィア警察殺人課の敏腕刑事バージル・ティッブス(シドニー・ポアチエ)だった。


35mmの夢、12inchの楽園

週に一便この時間にやって来る列車に乗り換え、バージルは終末を故郷で過ごす予定だった。しかし、自分の身元確認のためフィラデルフィアに電話すると彼のボスは捜査に協力するよう命じた。

田舎町ゆえ殺人を扱ったこともなく、しかも黒人差別の激しい土地柄。あからさまに自分を侮蔑するギレスピーの態度に、バージルは不快感を隠さない。ギレスピーとて、こんな黒人に捜査協力を頼むことなど自分のプライドが許すはずもない。


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しかし、バージルは殺人のプロでギレスピーは「ど」の付く素人。互いに不承不承、二人は捜査を始める。


35mmの夢、12inchの楽園

元々無能の集まりであるこの町の警官たちとバージルでは、所詮水と油。しかも、町ぐるみで黒人を目の敵にしている。バージルのストレスは、溜まる一方だった。おまけに、ギレスピー以下無能共は、誤認逮捕を繰り返す始末。


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そんな八方ふさがりの状況に、突然の転機が訪れる。被害者の妻レズリー・コルバート(リー・グラント)が、バージルに捜査させなければ町の事業から手を引くと宣言したのだ。


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相変わらず人種の軋みを感じながら、バージルとギレスピーはコルバート殺しの犯人を追うが…。

35mmの夢、12inchの楽園


夜の帳下りる中、バージルの乗った夜行列車が入って来る冒頭のシーン。揺れるヘッドライトの赤、纏わり付く湿気を感じさせる南部の夜。切り替わる線路のポイント。腹の底から声を出して歌うレイ・チャールズの「真夜中のバラード」


35mmの夢、12inchの楽園

35mmの夢、12inchの楽園

35mmの夢、12inchの楽園

今となっては映画史に残る名シーンだが、最初の数分だけで傑作の予感に満ちた刺激的な映像がスクリーンに映し出される。

舞台はミシシッピ州であるが、人種的・政治的問題からロケ地に使われたのはイリノイ州スパルタ。「スパルタの町へようこそ」という看板を活かすため、あえてミシシッピ州スパルタという架空の町を舞台としている。

かの有名な「奇妙な果実」ビリー・ホリデイによってコモドア・レコードに録音されたのが、1939年。「Southern trees bear strange fruit」で始まるこの曲は、黒人のリンチの光景を唄った歌で、サビの「Strange fruit hanging from the poplar trees」とは、ポプラの木に吊るされて揺れている黒人の亡骸を“奇妙な果実”と表現したものである。
ちなみに、ビリー・ホリデイは「タイム」誌に初めて写真が掲載された黒人である。

35mmの夢、12inchの楽園

1949年に「リズム&ブルース」チャートに改められるまで、ビルボード誌の黒人音楽チャートには「レイス・ミュージック」チャートという名称が使われていた。それが「ソウル」チャートに改められたのは、公民権運動盛んなりし60年代に入ってからだ。
その意味では、この作品は徹頭徹尾レイス・ムービーである。

南北戦争以前、「キング・コットン」と言われた綿花産業はミシシッピに新興富裕層をもたらしたが、多くの黒人労働者を使って綿花栽培をおこなっている町の大物エリック・エンディコット(ラリー・ゲイツ)はミシシッピの歴史における一つの象徴的キャラクターと言っていいだろう。
1960年代に入り、ミシシッピはアメリカ公民権運動の中心となって行く。しかし、そのムーヴメントはさらに激しい人種対立を引き起こすこととなった。ジャクソン大統領が公民権法を成立させたのは、1964年である。

また、ミシシッピはアメリカ黒人音楽にとっても非常に重要な場所である。最も有名なのは、やはりロバート・ジョンソンでお馴染みのデルタ・ブルースということになるだろう。
シャープなジャズ・スコアを得意とするクインシー・ジョーンズが、あえてハモンド・オルガンの音色を多用してゴスペルやブルースの泥臭いスコアを本作に用いた訳は、この映画をご覧になれば一目瞭然のはずだ。その象徴が、レイ・チャールズの主題歌なのである。
ちなみに、キング牧師暗殺により公民権運動に一触即発的な一大転機が訪れるのが、本作公開8か月後の1968年4月4日である。


35mmの夢、12inchの楽園

冒頭の列車シーンの後。サムが入ったダイナーで店主のラルフ・ヘンショー(アンソニー・ジェイムス)が五月蝿いハエをカウンターで仕留めたり、巡回中のサムが全裸姿の少女デロレス・パーディ(クエンティーン・ディーン)をパトカーから覗いて卑猥な笑みを浮かべたり(彼女のバスト・ラインは、窓枠で巧みに隠されている)。
その猥雑なシーンの一つ一つが、この物語の不快指数を確実に上げて行く。まさしく、舞台は“In the Heat of the Night”なのだ。

公民権法制定後の喧騒と混乱、盛り上がる“Black is beautiful”というスローガン。その社会背景から必然的に生まれて来た映画であるし、キャスト・スタッフたちも自主的に結集しての映画作りだったらしい。
ただ、そこはユナイテッド産であるから、巧みにポリティカル・トピックを取り込んだ娯楽映画となっている。シドニー・ポアチエ演じるバージルを徹底してソフィスティケートした黒人インテリに描き、あまり彼の内面に踏み込むことなく表情の演技でスマートに語らせるところが確信犯的である。
その一方で、ロッド・スタイガー演じるガムをいつもクチャクチャやっているギレスピー署長をカリカチュア的に描いているが、彼の人物造形は出色の出来である。他の白人たちも、一様に浅薄で卑しい人物ばかりだ。唯一、コルバート夫人を除いては。

終始冷徹な理性とプライドで気持ちをセーブするバージルとは対照的に、物語が進むにつれてギレスピーの人物像や心の揺れは克明に描かれて行く。その表現法たるや、ほとんど浪花節的なベタさである。
それこそが、本作を構造的に明快なエンターテインメントたらしめているのだ。その象徴がラスト。原作では、列車に乗り込むバージルにギレスピーは手を差し出せぬまま見送るのだが、映画では握手して笑みを浮かべる。徹底しているのである。

アカデミー賞で主演男優賞を受賞したのがシドニー・ポアチエではなくロッド・スタイガーであるところも、一筋縄ではいかないアメリカ・ショウビズ界のしたたかさと思えなくもない。もちろん、スタイガーの演技も素晴らしいのだが。
逆に言えば、この映画はバージルを徹底的な「招かざるストレンジャー」としてクールに突き放して描いたことこそが、最大の美点なのだろう。
ちなみに、バージルの科白“They call me Mr.Tibbs!”は、「映画の名セリフベスト100」(2005年アメリカ映画協会選出)の第16位にランキングされた。

本作は、アメリカ史的に見ても重要な意味を持つ社会派娯楽映画の傑作。
時代の空気感共々、いつまでも古くなることのない金字塔的な一本である。