80年代前半に思春期を過ごしたロック好きにとって、RCサクセションはYMOと並んで特別な存在だった。
両バンドとも社会現象となり、文化人的な人々や些か勘違いした取り巻きにも彼らは悩まされることになる訳だが、やはりこの2バンドは80年代初頭の日本カルチャー・シーンを語る上で、重要なファクターには違いない。
1982年に坂本龍一と忌野清志郎で資生堂CM曲「い・け・な・いルージュマジック」を発表した際、特に清志郎にはRCシンパから「裏切られた」的な意見がかなり寄せられたのも、今となっては懐かしい話である。何と言うか、昔「ローリング・ストーンズを聴いている人は、ビートルズを聴いてはダメ」的なセクショナリズムがあったけれど、そんな感じの批判だったのである。
その当時、RCは高校生に圧倒的な人気があった。恐らく、どこの高校の学園祭でも「雨上がりの夜空に」を演奏するアマチュア・バンドがいたんじゃないか…と思う。それくらいの人気であった。
僕がいた高校は、実は仲井戸CHABO麗市さんの出身校であったため、特にRC人気は凄かった。
RCサクセションは、メンバー・チェンジこそあったが、実に長い歴史を誇るバンドであった。当時僕らは、RCだけは解散しないんじゃないか…といった幻想を持っていたくらいである。
RCサクセションは、1968年に忌野清志郎(vo,g)、小林和生(b)、破廉ケンチ(g)で結成。アマチュア時代、三浦友和が日野高校の清志郎の同窓であったことから、バンドでパーカッションを叩いたエピソードは、つとに有名である。
シングル「宝くじは買わない」('70)で、東芝音工よりRCは正式にデビューする。後に合流するチャボ(仲井戸)とは、RCと古井戸(チャボがやっていたフォーク・デュオ)の活動の拠点であった渋谷のライブハウス「青い森」で1971年に出会い、交流を続けていた。その頃の仲間には、泉谷しげるもいた。
彼らはトリオ編成で、楽器も全てアコースティックであったが、歌詞・演奏スタイル・MCのどれをとっても、今ならアコースティック・パンク・ロックというのが相応しいバンドであった。当時の清志郎のMCは、かなりお客を挑発した内容だったと、後に彼はインタビューで語っている。
一般的には3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒットしたことで、RCの知名度は上がった訳であるが、彼らの曲にはこの曲のようなフォーク的なものと、(言葉遣いこそ、そんなに荒くはないが)内容的には完全にロック的なものとがあった。そして、より彼らの実像に近かったのは、言うまでもなくロック的な楽曲の方である。
彼らは2枚のアルバムを発表するが、ヒットには繋がらなかった。そうこうしているうちに、1974年に当時のマネージャー奥田義行が、井上陽水を連れて所属のホリプロから背信的な独立を謀る。プロダクション「りぼん」の設立である。そのトラブルの煽りを食って、3rdアルバムにして彼らの自信作『シングル・マン』は1975年に完成するも発売は見送られ、RCはホリプロ内で完全に干された状態になってしまう。
1976年にホリプロとの契約が切れて、彼らは「りぼん」に移籍。シングル「スローバラード」と『シングル・マン』がようやく発売の運びとなったが、さしたるプロモーションもされず、あっという間に廃盤になってしまう。この間の騒動で、破廉の精神状態が不安定になり、ギターが弾けなくなった彼は、1977年に正式にRCを脱退する。
1978年から清志郎は、バンドの立て直しを図る。小林和生にはウッド・ベースをエレキ・ベースに持ち替えさせ、やはり活動が暗礁に乗り上げていた古井戸の仲井戸麗市(g)に声をかけ、新井田耕造(ds)、Gee2wo(keyb)をバンドに迎い入れ、バンドのエレクトリック化と派手なメイクやコスチューム、ローリング・ストーンズ張りの激しいステージ・アクションと熱いR&BやR&R的楽曲を揃えて、ライブハウスでの活動を活発化していく。
新生RCは「わかってもらえるさ」以来、実に3年8ヶ月ぶりのシングル「ステップ!」('79)を発表。実質的な再デビューを果たす。この曲は、当時のディスコ・ブームに乗った軽いラテンのりのダンス・ナンバーであるが、演奏にスタジオ・ミュージシャンが起用されたため、バンドにとっては不本意な作品に仕上がっている。
しかし、彼らの激しいステージが、徐々に口コミで広がり、観客の動員数が増え始める。そして、1980年に渋谷のライブハウス「屋根裏」にて、伝説の4DAYSライブを開催。800人を動員して、「屋根裏」の動員記録を樹立する。この時期は、フュージョン・グループのクロスウィンドから小川銀次(g)が加わり、ツイン・ギター体制だった。
清志郎の有名なフレーズ「愛し合ってるか~い!」は、彼の敬愛するソウル・シンガー、オーティス・レディングのステージ上での掛け声を直訳したものである。また、この時期に作り上げた演奏スタイル、お客とのコール&レスポンス等は、後の日本ロック界におけるステージングのひとつのスタンダードとなった。
満を持して彼らは、久保講堂にてライブ・レコーディングを敢行。そのテープに、スタジオで入念なダビングや編集を施し、彼らの代表作『ラプソディー』('80)を発表する。この日の録音は、後に完全版が『RHAPSODY NAKED』('05)として2枚組で発表されたが、それを聴けば聴くほど、如何に彼らが『ラプソディー』の完成度をスタジオ作業で高めたのかが際立つ結果となった。
勢いに乗ったRCは、1981年12月から10年間、日本武道館でのクリスマス・ライブを行うことになる。しかし、彼らが真の意味で凄かったのは、1980年の「屋根裏」から1981年の日本武道館初ライブまでの間だろう。
社会現象化するのは1981年辺りからであり、人気の絶頂期はそれからの数年ということになる。
しかし、僕個人としての思い入れは、アルバムで言えば『シングル・マン』('76)から『BLUE』('81)まで、ということになる。
彼らはシングルやアルバム制作、コンサート活動を活発に展開して行くものの、清志郎の体調の悪化や、社会現象化することへの戸惑い(特に、内向的な性格のチャボには、かなり堪えたらしい)といったことが重なり、周囲の盛り上がりとは裏腹に、作品のクオリティは緩やかな下降線を辿り始めることになる。
そこに持ち上がったのが、東芝EMIの『カバーズ』('88)発売中止事件である。このアルバムは、洋楽の有名曲を清志郎流儀の歌詞でカバーした作品集であったが、反原発を歌った曲が親会社である東芝の不孝を買い、圧力がかかったのである。
結局このアルバムは、古巣のキティ・レコードから発売され、話題性も手伝って、皮肉なことに彼ら唯一のオリコン第1位に輝くこととなった。
しかし、僕の個人的な感想を述べれば、この辺りから清志郎の活動はさらに先鋭化・過激化して行き、他のメンバーとの間に徐々に溝ができ始めたのではないか…と推測する。同年12月には、挑発的なライブ盤『コブラの悩み』も急遽リリースしている。
清志郎のレコード会社不信、マスコミ不信は加速して行き、1989年には謎の覆面バンド、ザ・タイマーズ(バンド名は「大麻」のもじり)としての活動を、RCとは別に展開。物議をかもした。
しかし、1990年にGee2woと新井田耕造が相次いで脱退。一枚岩に見えたRCに、まさかの亀裂が生じる。残されたメンバー3人で『Baby a Go Go』('90)を発表。その年12月25日の日本武道館ライブを最後に、彼らは長きに亘る活動を休止した。
その後、清志郎とチャボは何回か同じステージに立つことはあっても、RCとしての活動はない。
そして、ソロ活動を展開していた清志郎を2006年に喉頭癌が襲う。一度は回復して2008年2月10日に日本武道館で「忌野清志郎完全復活祭」を開催したものの、同じ年に左腸骨への癌転移が判明。彼は闘病生活を続けたが、2009年5月2日0時51分癌性リンパ管症により逝去。本名・栗原清志、享年58歳だった。