こんにちは
~続きです
母は2018年9月中旬 1年間の闘病のすえ天国へ旅立ちました
苦しい最期でした
病室には、父、叔母、私、私の主人の4人だけでした
父も、母があまりに苦しむ姿をみて、”母もこんなに苦しむ姿は見られたくないと思うはず”と思ったのだと思います
父は”もう・・親戚は呼ばずに・・いいな・・”とこちらを向いて言いました
私も、その方がいいね と言いました
叔母が”もふもふちゃん・・お母さんはよかったのよ。ガンで死ぬって大変なことなの お母さんはよかったのよ”と言いました
私には、とてもじゃなく いいようには見えなかったのですが 世話好きで何人も看取ってきている叔母のいうことだから そうなのかもしれないと思いました
亡くなったあと、看護師さんが 母の体を拭いてくれて、整えてくれました
霊柩車が着き、斎場へと移動しました
斎場へ着くと、打ち合わせのときに申し込んでおいた ”ゆかん”の準備が始まりました
”おくりびと”というのでしょうか、”納棺師”というのでしょうか・・
男性と女性の二人の方がいらっしゃいました
この方たちの肝の据わり方に私は度肝を抜かれました
簡易のお風呂のようなものが持ちこまれ、母はそこに入り、髪はシャンプーで、体もきれいに洗っていただきました
二人の態度は 心を込めて そのものでした
棺の中で着る きもの は事前に叔母に選んでもらっていました
襟にしみがあったりと、あまり良い状態のものがなかったらしく、母には少し派手かな?という感じのピンクのきものでした
”少し派手かな?と思ったんだけど、やっぱり状態がいいものがいいからと思って・・”
正直、大丈夫かな? と思いました
女性の方から ”お化粧のほうは どうしましょう? お着物に合わせて、口紅はピンクがいいですか?”
と、聞かれました
叔母は、”あっ あの赤で・・ それとちょっと 濃い目に・・お願いできます?”
私も同感でした
母は、抗がん剤治療の副作用でシミがかなり濃くなっており、またやせ細り、顔は苦しみで歪んでいました
少し濃ゆい化粧をしなければ・・と思ってしまう状態でした
死化粧というものは、薄化粧と決まっているのかもしれません
棺の中にいる母と対面した私は驚きました
濃ゆくとお願いしたのに、薄化粧でそして魔法でもかかったかのように自然で 苦しみの顔が安らかに眠る少女のようになっていました
口紅も着物にあわせて塗られているとわかるような ピンク色でした
今までのことが、一気に溶けて 私の気持ちも安らかになりました
お通夜、お葬式、悲しんでいる暇などない感じでした
初七日まで一度に済ませる段取りだったため、斎場から火葬場、お寺、初七日の会食・・・
家についた時間も遅く、疲労の極みでした
この夜、眠りにつくとき、私の気持ちは悲しみよりも解放感でした
母が私の中で亡くなったのは、昏睡に落ちたときでした
”母は苦しみから解放された” そんな気持ちでした
この翌日、私は乳がん検診の再検査を予定していました
母が危篤になったため、少し延期してもらっていたのです
そして私は 母の葬儀の翌日、乳がんの宣告を受けたも同然という状況になります