こんばんは

 

~続きです

同時期に、母の治療方針について先生から父、私に説明がありました。

先生 : 残念ながら抗がん剤に耐える体力はもうありません。

 ここは急性期病院ですので積極的な治療ができない場合は緩和ケア病院への転院をしていただく必要があります。

 

とても熱血で厳しく強気、ハートフルな先生で、父も ”この先生でよかった” と信頼していました

ですので父も母も納得して治療を終え、緩和ケア病院へ転院することにしました

 

母の闘病を振り返り、この日が一番つらかった

私は不勉強で ”急性期病院”という言葉をこの日初めて耳にしました。 言われてみればそうよね・・・と思います

地域で一番の設備が整った病院。必要とする患者さんを優先しなければ回らないことは 当たり前のことでしょう

しかし私には思い込みがあったのです

 

祖父もこの病院にお世話になったのですが、末期の状態で入院した際、私は父から

”先生から  最後までみさせて下さい。もう家に帰ることはないと思います  と言われたからね  ”  と言われました

そして、ほどなく祖父は亡くなりました。

この経験から 私は” 最後までここでお世話になりたい ”と思い小さなことは我慢していました。時代は変わっているのに無知だったと思います。

 

また、”治療を終える ”ということの重みを理解していませんでした。

母は (初期の)自覚症状があまりなく、発覚時すでに ステージ4 でした。 

延命治療であることをわかっているつもりだったし、きつい治療で延命することよりも できるだけ苦しくないように、痛くないようにできれば・・と思っていました。

 

私は もう治療をしてもこのままどんどん衰弱が進むのではと思いましたが、違いました。

治療が奏功し、食事も制限はありましたがとれるようになり、体力も少し戻りました

この期間を利用し、治療の合間に 近場で旅行にいったり、残された時間を有意義に過ごすことができました

 

私は自分でも気づかぬうちに 幻想を持ってしまいました

このままもう少し・・・

 

わかっているつもりだった・・と気づかされた日でした

はっきりと、死へ向かっている・・と認識した分岐点の日でした

 

先生のお話の時にも泣いてしまいましたが、帰りの車でも泣きながら帰りました。

この数日後、母は昏睡状態となります。

 

 

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