A NEW EARTH  | フラメンコギタリスト樫原秀彦のブログ 

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日々の気づき
忘れるもの忘れないもの
変わるもの変わらないもの


この世界を変えたいのならその世界に私がなろう。 
                (意識の扉~ユニバーサル・フラメンコ・オーケストラ新曲の歌詞より)

僕は既存の如何なる宗教団体にも属していない。そもそも信仰心というものがあまり無い。
神は自分の中に在ると思って、ずっと生きてきた。
若い頃は神を概念や自分との相対的な存在として捉えていた様な気がするけど、歳を重ねるにつれ、
神=愛は決して概念ではなく、自分の中に確かに在る絶対的な存在として感じる様になってきた。
そして常に自分を突き動かすものは、その内なる神への信仰ではなく献身なのだけれど、
ただ与える為だけに在るのが神=愛の意思だと理解はしていても、悲しいかな与えて受けとる事でしか
歓びを得られないのが僕という人間の本質なのだ。
それでも構わない、自分が歓びを受けとる為に誰かに歓びを与え続ける。
自分に出来る事は、その繰り返しでしかない。 そうすれば少しづつではあるけど、
神=愛そのものへ近づけるんじゃないかと思っている。。。
当たり前の話だけど自分以外の誰かが、確かに存在している事に僕は強烈に気づいてしまった。
1日はその誰かとの関わりの瞬間の連続で過ぎていき、その人は泣いている。笑っている。
その姿は自分と何ら変わらない。
ぼくの目の前には自分と同じたった一人のかけがえのない人間がいる。
そして誰かがいてくれるから僕という人間も存在しえるのだ。
この世界に生まれて来た理由生きる意味をずっとしてきたけれど、
それは何時だってちゃんと目の前に在ったんだ
どんなに空は青く花は美しく宇宙は無限でも、この世界でひとりぼっちじゃーつまらない。
そんなの絶対に嫌だ。 僕は誰かに語りかけ、受けとり、認め合い、赦し合い、分かち合い、与え合い、
歓び合い、生かし合いたいのだ。

テレビをつけるとオイオイこの世界は終わってんじゃーねーかと感じてしまう。
そんな世界に同調しながら過ごしちゃうと酷く疲れるし、内なる神も霞んでしまう。
それでも脆く折れそうなこの心を何とか支てくれているものは、
愛そのものになりたいという切なる思いだ。
もしそれが消えて無くなってしまったら、僕の命は無いに等しい。

もうすぐ夏がくる。今年も86日がやってくると、長崎では多くの祈りが原爆の犠牲者に捧げられ、
核廃絶と平和へのメッセージが世界中に向けて発信されるだろう。
今日はイエスという人を思いながら書いています。
イエスとの最初の出会いは、被曝から26年後の長崎で過ごし始めた幼少期。
その頃に通っていた爆心地の中心に在るカトリックの幼稚園でだった。
先生やシスターは、人に優しく思いやりをもって接する事の大切さを話してくれた。
それだけが記憶として鮮明に残っている。 今でも教会にいくと不思議と気持ちが安らぐ。
当時、担任の先生から何故か僕はある役目を任されていた。
それは転入生や暴力を振るったりした友達がいると、教室の壁にかけられ棘の冠を被り、
血を流すイエスの像の下、 「僕達が悪い事をすると、イエスの頭に棘が、また1つ刺さるんだよ。
痛くて可愛いそうだね。だから悪い事はしちゃいけない」 
という様な言葉で友達に伝える役目を任されていたのだ。 この事の是非は未だに判らない。
でも、その後の人生で自分の思考と感情のメカニズム、行動規範に深く関わる出来事になった事は
間違いない。

自分、他者、社会と接するうえでの善と悪の葛藤、選択の瞬間、瞬間は否応なしに訪れ続けた。
今まで、どれだけ自分を欺いてきたんだろう。どれだけの人を傷つけてしまったんだろう。
全ては自分自身の愚かなエゴと弱さが原因だったと気づいた。
自分が冒した罪を償えた事など一度たりとも無い。
でも不思議なもので、その罪の1つ1つが生かされる機会は人生の中で必ず与えられ続けてきた。
それを克服できた時もあれば出来なかった時もあった。
人間の世界では全てが相対化され成長の糧として善と悪も存在していて、
人間である限り、そこから逃れる事は難しい。 愛そのものになりたいと願い求めるならば、
目の前で起こる出来事の1つ1つから学び、目の前にいる1人1人に対して誠実であり続けること。
人類が辿ってきた歴史と創造してしまった目に映る現実の世界を直視することだと思う。

イエスは特別な人間ではなかった。 在るものは在る、無いものは無いと言った、ただの人であり、
自然や動物。地球や宇宙の生命と人間の意識は本質的に繋がっているが、
あくまでも知的生命体としての人間にこだわり、この地上物理次元)での
人間の在り方と生き方を自らが示した人だ個人的な見解)
故に時の権力者達は彼を恐れ、イエスは、あのゴルゴダの丘で十字架に張りつけられた。
あれから2013年が経ちイズムやシステムを具体的に変えていく事は尊い行いであり必要かもしれない。
でもそれだけでは足りない。その事は近代の歴史が確実に物語っている。
イデオロギー、科学、形骸化した宗教、個人の哲学然り、他者への批判や否定のエネルギーは
精神を自ら蝕み、自分こそが正しいという考えは、自分と他者のエゴとエゴの対立という
限りない循環の中で更なるエゴを増殖させる。
人類は今、進化するか絶滅するか待ったなしの選択を迫られてはいないか。
個人同士
がこのエゴとエゴの対立という悪夢から覚醒しないと
人類は狂気
の中で同じ悪を、同じ悲劇を、同じ世界を繰り返し創造していくだろう。

狡猾で人間の尊厳と命を軽んじる宗教指導者、企業、政府、それらを支配している権力者が
恐れているものは今も何ひとつ変わらない。それは唯一、
人間が愛そのものであるという気づきの中で、意識の変容と知的進化を遂げる事だ。
その暁に意図も容易く世界はあなたの手から、こぼれ落ちていくだろう。
それは痛ましい程に気高く悲しみ苦しみながら、幸せを求め生きる人々の内から溢れだす
優しさと思いやりで静かに起きていくんだよ=集合意識。。。
恐れる事は何もない。ニューアースでは闘う意志はない。誰もあなたを裁いたり殺したりもしない。
あなたも一緒に叡知を結集しニュー・アースを創造していくのだ。
今度こそ
地上の誰ひとり、この世界から忘れられてしまわぬ様に。


私達は愛そのもの。たった1つの。そして無限の。
                 (
ニュー・アース ~ ユニバーサル・フラメンコ・オーケストラ新曲の歌詞より)


あの頃見ていたイエスの顔は、何時も悲しみに満ちていたけれど、
いつの日か苦難の象徴ではなく、笑顔で穏やかなイエスの絵画や彫像が
世界中に溢れる日が来たら、どんなに素晴らしいだろう
と僕は夢想している。
それは既に起こり始めているのかもしれない。 。 。