【そ】 袖ふれあうも他生の縁
《間違い度》 ★★★★★
《コメント》 実家がお寺でしたら,もしかしたら知っておられた方も…
◇「他生の縁」ですよ
日本語は,同音異字語が多いのが,時には厄介なものです。
ほとんどの方は,このことわざを「多少の縁」と書くと思っておられたと思います。えーっと,隠しても駄目ですよ。勿論,私は間違っていました。念のためですが,「多少の緑」と覚えておられた方はいないですよね
でも,言い訳をするわけではないのですが,いえ,言い訳なのですが,このことわざは「多少」でも十分に意味が成立すると思いませんか。
「袖がふれあった」ような「些細なこと」でも何か「縁があった」からだ,つまり「どんな些細な出会いでも縁のお陰なので大切にしよう」,みたいな意味ということですね。これでもいいような気がするのですが
◇辞典で調べてみました
試しに,私か普段愛用している「角川実用国語辞典」を引いてみると,
多少 → いくらか。少々
他生 → 何度も生まれ変わること。
と書いてあります
やはり,何となく「多少」の方がしっくりこないですか? んー
◇でもやっぱり
ことわざや慣用句には,成立するまでにそれなりの歴史があるわけですから,私の方があっているわけもありませんので,本来の意味を調べてみました。
「袖ふれあうも他生の縁」は,「紬ふりあうも多生の縁」や「紬振り合うも他生の縁」などともいいます
「袖振り合う」は,お互いのたもとが触れるという意味です。これは,まーわかりますよね。
また,「他生の縁」の「他生」は,いま生きているこの世だけでなく,私たちが生れる前々からの生,ときには未来の生のことをもさすんだそうです。んー,チョッと難しくなってきました
ですから,「袖ふれあうも他生の縁」は,「路上で道行く人と袖がふれ合うのも,決して偶然なできごとではなく,会うべくして会う必然の出会いである」つまり,「偶然に出会ったのではなく,前の世からの約束の出会いが,今ここで実現した」のであり,この出会いを大切に育てていかなければならないという意味なんだそうです
あれっ,これって私が勘違いしていた意味と似ているような気がしないでもないですが,やっぱりちがいますよね

