留学中の観劇日記にするつもりがどうしてこうなった…と焦燥にかられたので一年間観て来たもののなかで特に印象に残ったものをウィーンにいるうちにまとめておこうと思う。
初めがエリザでもロンドンレミゼでもなくこれなのは、コレを観るためにドイツに呼ばれたのではないかと思ったくらい様々なことが見えたからです。舞台作品というものについて。演出について。役者というものについて。翻訳することについて。
何年か前の東宝レミゼのキャッチコピーが「このミュージカルは、あなたの人生を変える」みたいなそんな文句だったのですけれど、そしてこの作品によって私の人生は確かに変わってしまったのですけれど、今回のこの舞台はまさに今この時に観るべきで、この時に観たからこそまたしても間違いなく私の人生に介入されてしまった、してやられた、そんな舞台でした。
とにかく特筆すべきことは、野外舞台の丸見え感である。とにかく舞台の出入りにセットの移動にスタンバイに、室内舞台なら暗転で黒子が暗躍するところをそれが出来ないので、さっきまで役者だった人たち(おそらく)が舞台装置を押して移動させたり、歌の途中で次の場面の役者達がスタンバイをし始めたりと演劇の暗黙の了解を遠慮なく押し出してくる。一番興味深かったのは、バリケード陥落の後、下水道の場面になるときに、バリケードのセット(舞台中央)の前に下水道のセット(舞台前方)が移動してきてテナルディエが歌うのだけれど、テナルディエが歌い出した瞬間に死んでいた学生達がおもむろに起き上がってバリケードのセットを片付けはじめるという。これは初めて見た人は面食らうだろうなと思った。けれどもそういうお芝居をしている時間とそうでない時間が同じ舞台上にあるというのは、こちらの頭を少し冷静にさせるのですね。例えば、学生達の散り様というのはどのカンパニーにおいても非常に悲劇的にヒロイックに描かれるものですが、この舞台では他のカンパニーに比べればとても薄味。アンジョルラスが打たれて血糊が噴出すなんて野外ならではの仕掛けもありましたが、あの感動的なメロディに押されて白い光の中に照らし出される若い死、なんて英雄じみた演出はありません。それでもそれが物足りないなんて思わないし、納得させられてしまう。何回も観ているのに、今回初めて私は彼らのしたことが、理想に駆り立てられた学生の、一夜にして陥落されてしまうような無謀な反乱だったということを理解しました。死んでいった彼らが役目を終えて芝居の時間軸から外れて退場していく姿のなんと無常なことか。先ほどまでライトを浴びて歌い上げていた彼らがセットを押して舞台袖に消えていくのが見えてしまうその違和感。けれどももしかしたらこれもユゴーの著した群像劇の一部なのかもしれません。人生の主役はその人そのものだけれども、外的世界からみた主役はその場に応じて時間の経過と共にくるくると変わっていく。幸せがあれば悲しみも苦悩もあり、それは等しく誰の下にも訪れるし、必ず人は死ぬ。長い時間の流れの中では人の人生なんて瑣末なことで、世界は人間の小さな力では大して変えられない。でも、内的世界は信仰によって変えられると証明したのがバルジャンで、自分の内側が変われば世界は変わるんだよ、生き方は何通りもあるんだよ、何を信じてどう生きるの?と生きることの冷たさを突きつけながら暖かさを語りかけてくれる、両方が混在しているのがミュージカルレミゼラブルの最大の魅力なのだろうと、だからこそこんなにも愛されているのだろうと、今回の舞台を観て気づかされました。あの凄惨な死を目撃しても、ファンティーヌやABCの仲間達を哀れだと思いこそすれ、不幸だったとは誰も思わないはず。
主演のThomas Borchert氏はTdVのクロロック伯爵やレベッカのマキシム等日本でもお馴染みの作品にも出演されている素敵な役者ですが、バルジャンもなかなかのもの。観るまでは怪力大男のバルジャンには少し細身なのではないかと考えたり、観劇中も凶暴性が足りなくないだろうかと感じたりしたのですが、バリケードでジャベールに向かって「私は一人の人間だ、何の特別なところもない他と変わらないただの人間だ」と語るところで彼がバルジャンであることが漸く腑に落ちました。この舞台のバルジャンは(バルジャンに限らず全ての登場人物が)普通の人間で、極力普通の人間の範囲内で行動させられているんですね。普通で、自然体でありながら、なんとなく違和感がある、何か違う空気を感じさせる、彼はそんな表現にとても長けた役者だと思います。
思いがけず纏まってしまったので、一曲ずつの細かい記録は次回に。
野外という制約上、削いだ美しさがある分迫力に欠ける舞台ではあったけれど、マリウスを語るには素晴らしい演出の数々がありました。