この度の災害におきまして、なじょ☆さん や keyさんを始め様々な方々に多大な心配やメール、コメントをいただきまして、心から御礼を申し上げます。
私は宮城の沿岸部に家があり、会社も沿岸にあるので、言わずもがな津波による被害が甚大です。
11日の災害時、私は会社に居ました。立っていられない程の揺れで、会社から外に出る事すらもままならず
上司の男性に、抱えられるような形で外に出ました。
既に目の前の道路は陥没や隆起を始めていて、車で通行するのには難しい状況でした。
まず私が心配したのは家族。いくら電話をかけても、災害直後で回線がパンクして、全くかかりもしたい状況が続きました。心配でした。自分の身よりも家族が何より心配で、とりあえず電話が通じてくれるのを祈りました。
ようやく妹のケータイに繋がった時、妹と愛犬と祖母の安否確認が出来たので、私は妹に「お母さんの会社に行きなさい!一緒に行動しなさい!」と、いつになく命令口調で用件のみ伝えて、妹からは「とりあえず逃げろ!」と言われたので、私は車に乗って家を目指しました。
当然外は大渋滞。すんなり帰れる筈がなく、会社から離れて数キロ走った後、後ろから「津波が来たぞー!」と叫び声が聞こえて、下を見ると、既に水が迫っていました。
もう、逃げられない状況だったので、クラクションを激しくならし、反対車線に出た後、少しだけ高台に車を停めて、カバンと車の鍵だけ持って山に走りました。
するとすぐに波が襲ってきて、次々に車や家が流されて行く中、例に漏れず私の車も流されましたが、幸い私は濡れる事なく避難する事が出来ました。
3月でも、彼岸前という事もあり、雪がしんしんと降っていて、手がかじかんで、数分で足先が麻痺してしまう程の寒さのなか、私は孤立してしまいました。
そこまでは、まだ序章にしか過ぎず、災難と呼ぶべきはここからでした。
何度も書いている通り、沿岸部という事もあり津波から逃げ遅れ、津波にのまれた人たちが次々に漂流してきて
ガクガク震える人達に、みんな少しずつ、靴下や、コートを貸し
そうこうしている間に、また第二波が来るという情報が入り、足場がない山へ、みんな無理やり登山を開始。
尚も次々に溺れ流れ着いた人が山に来て、顔色が真っ青で
当然、年配の方々も多く、寒さの影響か、既に具合が悪くなっていたので
私は着ていたコートやカーディガンを貸し、私自身はYシャツとスカート一枚ずつのまま、寒そうにガタガタ震え、具合が悪い人達を看病しました。
次第に夜になり、雪もまだ止まない状況で、寒さも厳しくなっても、大津波警報も解除されず
それでも、具合が悪い人が限界だったので、一時下山して、火をたいて
火の近くに具合が悪い人達を寄せて、寝ないように背中をさすり、声をかけ続けました。
その日はそんな調子のまま終わり、私は知らないおじさんの車に入れてもらって一夜を過ごしました。
睡眠時間約30分。
明るくなって、改めて周りを見ると、そこはもう別世界。
車が横転、薬局の一階は吹き抜け、コンテナや家も流されて、電柱や標識も折れていました。
ヘドロまみれで、何とも言えない匂いが充満した辺り。
今まで見知った風景とは思えない状態でした。
朝から空にはヘリコプターが飛び
それに向かって、みんな懸命に手を振り助けを呼びましたが、いっこうに降りる気配が無く、とりあえず自分たちが食べる食料を自分たちで調達しつつ、どの道を通って行けば家に帰れるのか、私の車はどこに流されたのか、を調べてまわりました。
災害から3日目、私は動かなくなった自分の車から思い出の品を取り出し、最後に連絡した内容を頼りに40キロ強離れた場所に向かう為に、朝7時前に家族を探しに向かいました。
8センチ位のヒールの靴を履いていた私。
ヘドロに足をとられながら、ヘドロが体に付こうが、気にすることなく前へ前へ進み、途中で家族が食べる分の食料を調達。
なんとか連絡があった場所に約6時間かけて行きましたが、そこには既に家族はいなくて
近くの山に回って家族を探し続けましたが、それでも見つからず、途中親切な方々に頼り、点々と避難所を回ったけど見つからず、ココロが折れそうになって、泣きながら縋った最後の避難所に行ったら
奇跡的に家族がいて
泣きました。
生きてて良かった
無事で良かった
また、会えた事に。
そして、家族から、家が流されて無くなった事を知らされました。
犬がいるので避難所には入れないので、車中泊を約一週間続け
奇跡的に親戚の二回が無事だったので、そこを借りてようやく、布団で寝る事ができました。
それから、今に致るまで色んな事がありました。
今日ようやく電気が普及して、この日記を書くことができました。
不幸自慢ではありません。
一歩間違えば私も死んでいました。
家族で一緒にいれる事の幸せと、ライフラインの有り難みを感じています事と無事に生きている事をここに報告します。
私は宮城の沿岸部に家があり、会社も沿岸にあるので、言わずもがな津波による被害が甚大です。
11日の災害時、私は会社に居ました。立っていられない程の揺れで、会社から外に出る事すらもままならず
上司の男性に、抱えられるような形で外に出ました。
既に目の前の道路は陥没や隆起を始めていて、車で通行するのには難しい状況でした。
まず私が心配したのは家族。いくら電話をかけても、災害直後で回線がパンクして、全くかかりもしたい状況が続きました。心配でした。自分の身よりも家族が何より心配で、とりあえず電話が通じてくれるのを祈りました。
ようやく妹のケータイに繋がった時、妹と愛犬と祖母の安否確認が出来たので、私は妹に「お母さんの会社に行きなさい!一緒に行動しなさい!」と、いつになく命令口調で用件のみ伝えて、妹からは「とりあえず逃げろ!」と言われたので、私は車に乗って家を目指しました。
当然外は大渋滞。すんなり帰れる筈がなく、会社から離れて数キロ走った後、後ろから「津波が来たぞー!」と叫び声が聞こえて、下を見ると、既に水が迫っていました。
もう、逃げられない状況だったので、クラクションを激しくならし、反対車線に出た後、少しだけ高台に車を停めて、カバンと車の鍵だけ持って山に走りました。
するとすぐに波が襲ってきて、次々に車や家が流されて行く中、例に漏れず私の車も流されましたが、幸い私は濡れる事なく避難する事が出来ました。
3月でも、彼岸前という事もあり、雪がしんしんと降っていて、手がかじかんで、数分で足先が麻痺してしまう程の寒さのなか、私は孤立してしまいました。
そこまでは、まだ序章にしか過ぎず、災難と呼ぶべきはここからでした。
何度も書いている通り、沿岸部という事もあり津波から逃げ遅れ、津波にのまれた人たちが次々に漂流してきて
ガクガク震える人達に、みんな少しずつ、靴下や、コートを貸し
そうこうしている間に、また第二波が来るという情報が入り、足場がない山へ、みんな無理やり登山を開始。
尚も次々に溺れ流れ着いた人が山に来て、顔色が真っ青で
当然、年配の方々も多く、寒さの影響か、既に具合が悪くなっていたので
私は着ていたコートやカーディガンを貸し、私自身はYシャツとスカート一枚ずつのまま、寒そうにガタガタ震え、具合が悪い人達を看病しました。
次第に夜になり、雪もまだ止まない状況で、寒さも厳しくなっても、大津波警報も解除されず
それでも、具合が悪い人が限界だったので、一時下山して、火をたいて
火の近くに具合が悪い人達を寄せて、寝ないように背中をさすり、声をかけ続けました。
その日はそんな調子のまま終わり、私は知らないおじさんの車に入れてもらって一夜を過ごしました。
睡眠時間約30分。
明るくなって、改めて周りを見ると、そこはもう別世界。
車が横転、薬局の一階は吹き抜け、コンテナや家も流されて、電柱や標識も折れていました。
ヘドロまみれで、何とも言えない匂いが充満した辺り。
今まで見知った風景とは思えない状態でした。
朝から空にはヘリコプターが飛び
それに向かって、みんな懸命に手を振り助けを呼びましたが、いっこうに降りる気配が無く、とりあえず自分たちが食べる食料を自分たちで調達しつつ、どの道を通って行けば家に帰れるのか、私の車はどこに流されたのか、を調べてまわりました。
災害から3日目、私は動かなくなった自分の車から思い出の品を取り出し、最後に連絡した内容を頼りに40キロ強離れた場所に向かう為に、朝7時前に家族を探しに向かいました。
8センチ位のヒールの靴を履いていた私。
ヘドロに足をとられながら、ヘドロが体に付こうが、気にすることなく前へ前へ進み、途中で家族が食べる分の食料を調達。
なんとか連絡があった場所に約6時間かけて行きましたが、そこには既に家族はいなくて
近くの山に回って家族を探し続けましたが、それでも見つからず、途中親切な方々に頼り、点々と避難所を回ったけど見つからず、ココロが折れそうになって、泣きながら縋った最後の避難所に行ったら
奇跡的に家族がいて
泣きました。
生きてて良かった
無事で良かった
また、会えた事に。
そして、家族から、家が流されて無くなった事を知らされました。
犬がいるので避難所には入れないので、車中泊を約一週間続け
奇跡的に親戚の二回が無事だったので、そこを借りてようやく、布団で寝る事ができました。
それから、今に致るまで色んな事がありました。
今日ようやく電気が普及して、この日記を書くことができました。
不幸自慢ではありません。
一歩間違えば私も死んでいました。
家族で一緒にいれる事の幸せと、ライフラインの有り難みを感じています事と無事に生きている事をここに報告します。