<21時06分>
薬を飲むまで
16時に、飲んだ。
その時間に飲むことに決めていた。決めた時は特に意味はなかったけど、大きな役割を果たすことになった。
15時半頃からだろうか、期待と緊張と怖さと困惑と過去と未来と、数え切れない感情がごちゃまぜになって身動きが取れなくなった。
うつ病等の問題ではない。本当に感情がごちゃまぜで、動けないのだ。こんな事は後にも先にも無いと思う。
このままだと飲めないのではないか、と不安になったので先に錠剤だけ取り出すことにした。それでも錠剤を取り出すだけで15時45分になっていた。エチニラの方は割れやすいと聞いていたので慎重に取り出した。
15時55分。錠剤と水を前にして、私は一歩も動けなかった。何を考えていたのかもよく覚えていない。
そして気がついたら16時丁度になっていて、「この時間に飲むと決めた」という一言だけを頭に響かせて、二錠の薬を口に入れ、水を飲み干した。
なんのことはなかった。水を飲み干しても、特に「もう後戻りは出来ない」とか思ったりはしなかった。
自分がGIDであることに気づいてから10年以上、うつ病まで併発し、ホルモン治療は長年の悲願だった。それでもあまりにも勇気が要った。あるいは、10年以上も悩んでいたからここまで勇気が必要だったのかもしれない。自分が10代の頃にホルモン治療が可能だったら、何の躊躇いもなく勢いで飲めていただろう。
歳を食ってしまったから逆に色んな事を考えるようになってしまったのだと思う。
飲んだ直後の変化 (1)
飲み干してしまうと、特にどうという事はなかった。急激な何かが訪れるということも無かったし、一番ありがたいことに、抑うつや情緒不安定等の副作用がなかった。これについては、この文章を書いている現在も無い。
しかし飲んで2時間くらい、18時くらいだろうか、下腹部に何かくすぐったいような妙な感覚がした。最初はプラシーボだろう程度に思っていた。
しかしその感覚があまりにも長く続くので(今も続いている)、試しに外性器を触って軽く擦ってみた。勃起しない。飲んでたったの2時間で、勃起という機能がほぼ無くなっていた。
一応擦るのを激しく続けたら軽くは勃起したものの、勃起の程度的にも感覚的にもとてもではないが射精が可能な状態には思われなかった。元から自慰行為は月に1回か2回程度するかどうかだったが、それは自慰行為をしないという状態が長年続いていただけで、射精できない、という事は無かった。
ところで女性ホルモンの錠剤自体は合法的に簡単に手に入るのだが、諸々の商品のレビューを見ているといわゆる女装子の方があまりにも多いので驚く。購入者全体の割合としてはかなり少ないが、それでもそんなことが目的で飲むなんて、と驚かずにはいられなかった。
ほとんどのレビューは「この薬のお陰で体つきや顔つきが~」「外性器が隠れるようになって~」等と好意的な調子で書いてあったが、GIDでない人達が若気の至りの承認欲求で女性ホルモンを摂取して、生涯に渡って後悔をしないのだろうか。私はひどく心配な気持ちになった。私も昔ネットアイドルもどきだったから分かるが、若い頃の承認欲求だけでアイドルなんてやれるのは20前後までだ。私の知り合いもそのくらいにみんな辞めた。だから田村ゆかりは凄いのだ。あの歳までアイドルをやれるのは本当に見ているだけでも頭が下がるとしか言いようがない。精神力が強靭過ぎる。
女装等が目的で摂取している人達が後悔しないかどうかひどく不安でならない。
他人のことなんて心配している場合では無いが、どうしても気にかかって仕方ない。
GIDの人間なら、飲んだり打ったり出来る環境にあるのなら10代だろうとなんだろうと即座にやってしまった方が絶対に良いと確信しているけれど、そうでない人間がかなりの人数こんなことに手を出しているのはひどく怖いことだ。
飲んだ直後の変化 (2)
そして女性ホルモン摂取後の変化を、記録を書いている21時の今、もう一つ感じている大きなことがある。
人の表情の見え方が変わった。
作業用BGMにVtuberの雑談配信を流しているのだが、なんというか、あまりにも、見え方が違う。
いつもと同じような配信のはずなのに、まるで違う映像が流れているみたいだ。
推しの顔や表情、そして動きが普段よりとてもきめ細かく見える。フレームレートとグラボの性能が急上昇した、そんな表現が多分一番正確だ。1秒間に受け取る情報量が劇的に増えている。以前は気づきもしなかったような色んなパーツの細かい動きが突然認識できるようになっている。
いやそれとも、たまたま今日推しが自分の姿を大きめに映しているだけだろうか? その可能性を疑った私は、他のいくつかの動画を開いてみることにした。
3つほど開いてみると、どれを見ても小さな動きがひどくくっきりと見える。同じ速度のはずなのに、まるでスローモーションで見ているかのように表情の機微を把握できる。右下にちっちゃくVtuberが映っているだけのゲーム配信でも全く同様だった。
明らかに、人間の表情の見え方が、質的に変化している。
以前読んだ何かの本で、私とは逆のFtMの方の発言が引用されていたのを思い出している。
「男性ホルモンによる治療を続けながら、段々と自分が世界に対して鈍感になっていくのを感じた」
ならば私には逆のことが起こるはずだ。私は世界に対して敏感になる。今まで見えなかったものが見えるようになる。
それと、なんていうか……推しの顔を見づらい。目を見つめることが出来ない。恋か? 小学生か? だけどマジで変なむずがゆい感覚がする。なんだこれは。
飲む前の日記で書いていたことだが、私はホルモン治療に精神面の変化を期待していた。それはもう、錠剤を飲んで半日も経たない間に起こっている。
様々な情緒のせいで混乱に陥って薬を飲むのをひどく悩んだが、本当に、本当にホルモン治療を始めてよかった。
それを、1日目から既に感じ始めている。
飲んだ直後の変化 (2.5)
私はあまり人におおっぴらに出来るような性癖をしていないので詳細を知っている人は少ないのだが、試しに私のアレな画像のフォルダを開いてザカザカと流してみることにした。
私は驚愕した。
絵が、認識できない。
胸や外性器のような、いわゆるセックスアピールの強い部分に全く目が行かない。どんなに見ようとしても、見えない。
代わりに自動で目が被写体の顔にロックオンされる。それ以外の部分が本当に全く見えない。視点を顔からそらしても何も認識できない。
明らかに私が意識しているからじゃない。自己暗示のレベルを超えている。そして、やっぱり表情は今までの何倍も微細に視える。
絵全体が同時に認識出来ない。顔しか見えない。他の部分がうまく認識出来ない。ぶっちゃけ胸や外性器の大きさが顔の何倍もあるような絵がほとんどなのに、どんなに頑張ってもそれらが何であるのか認識すること自体が上手く出来ない。その代わりに顔は異常にクッキリとよく見える。なんだこれは。
(15分程度後)
色々試してみて分かったことだが、
絵を見る時の中心点が大きなズレを起こしている。それに気付いてからは絵の全体がどうにか認識できるようになった。
以前の私は、こういう絵に限らず、人が映った絵を見る時はセックスアピールの強い部分を中心として無意識に目の焦点を合わせていたようだ。今はそれが出来なくなっている。
代わりに、まず人間の顔を視界の中心に置いて絵を見て、それからカメラのズームを引くような感覚で視野を広げていく。繰り返してやり方を覚えて、ようやく絵の全体を同時に見ることが出来るようになった。個別のパーツもギリギリ認識できる。慣れたら元通り普通に見えるようになるだろう。
だけど、その見え方は多分質的に少し変わっている。少年漫画と少女漫画で画風が全然違うわけだ、と思った。少女漫画のキャラクターの顔のパーツがやたら大きいのは単に文化的な問題じゃない。
倍量飲んだりしてるわけでもないのに、半日でここまでの影響があるものなのか。私は生物というものの構造が少し恐ろしくなり、そして未来に期待を寄せた。