失うものが無いという強さ | TAKAKO徒然ブログ

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昨日は約14年に渡り運営してきた会社の解散登記が全て終了した書類をとりに、法務局に出かけてきました。

NPOを設立してみたり、会社を立ち上げたり、と意欲的に見えますが、これは夫からの提案だったりお願いごとで始めたのでした。設立すれば何かしら発展させられるかな、と思って私も乗ったわけです。

そこそこ活動して、そろそろ終了かな、というタイミングで閉鎖の方は私の意志で決めました。

 

牧師家庭だった実家を振り返ると、父の教会は小さくて大きくならずに寸止まり。

それに比べて親戚の教会は大きく発展していました。

信仰が足りないとかもあるかもしれませんが、いやらしい言い方をすれば運営する牧師さんの事業センスの有無も大きいと思います。あとはサポートする妻ですよね。

実家はどれも欠けていましたから、そんな中で育って大きな発展を見る事は無く、自分も大きな発展を望んだりしましたが無く(笑)、こういうのも遺伝するのでしょうかね。

 

そんな状況ではあっても、年齢がようやく二桁(10歳くらい)になった時の自分から比べれば、沢山のものを獲得してきたのだと思います。

何度も書きましたが、母からも、そして父からも凄まじい虐待を受けて育った一桁年齢時代の私。

人格は繰り返し否定され、お前はダメだ心が真っ黒だネジくれている、生まれながらに。と母から言われ続けた幼い日々。私の頬をつねりながら「どうしてこんなにネジくれているんだろう。」と母が私の事を嘆いて?!いたのは断片的に覚えています。頬の痛みなどはまるきり思い出せませんが。

肉体的にも性的にも痛めつけられたいましたし、インサイトの最初の担当の先生が「よく生き延びましたね。サバイバーです。」と感慨を込めて私に言ってくれたのを思い出します。その先生は見た目冷静な女性なので、その時の私には思いが伝わらず先生がかなりの感慨を込めている事が理解できていませんでした。今にして思えば、精一杯の感動と敬意を込めて伝えてくれたのだと思います。

自分の力で覚えていたのは、

10歳になった頃の昼間の事。幸運にも両親は私を虐待する事をやめました。十分に痛めつけたから従順な犬になっていましたしね。これ以上の躾は不要だったのかもしれません。あとは餌を与えてコントロールする作戦に変えたのかもしれないですね。彼らは支配者ですから。幸いな事に顔が可愛かった。両親に似ないで容姿がちょっと良かった。

これもサバイバルのためのアイテムなのですが。

可愛くなければ役にたたない、教会の為に使う事もできないただのクズ。可愛ければ使えるから、大切にしてもらえるという訳なのでしょう。条件付きの愛極まれりです。

彼らの忠犬は、もちろん尻尾を振って、彼らの条件付き愛を欲しがりました。レ・ミゼラブル。

※いまだからこんな風に分析していますが、当時は必死です

そして10歳のある日、自宅6畳間で手鏡に自分の顔を映して考えました。

私は人から愛されるものを何ひとつもっていない。自分の中の良い物なんて何もない。このままでは私はダメになる。なんとかして人から振り向いてもらえるように愛されるようにしないと。どうしようか・・・。

とりあえず、愛想のない顔を変えてみよう。漫画の顔は唇の両端が上がると笑顔だから、それをやってみよう。

という事で、漫画が好きだったのでその表情からヒントを得て、口角を上げてみたら笑顔の自分がいました。

母から散々ブスと言われていたけれど、どこかで私はメガネをとれば可愛いのでは?!という思いがあって、確かにメガネを外してニッコリすると可愛く見えました。

ピチピチに若かったからね。ギスギスしたキツイ年配女性が作り笑いをすると怖いけど(笑)、当時の私は可愛くみえました。

今にして思えば、貧乏な牧師家庭で、自宅は都営住宅の六畳と四畳半二間の木造平屋でボットンお便所。子供だからお金も無けりゃ自分への自信だって無い。何もない私は失うものが0。虐待していた両親の危機からはとりあえず開放されたので、失うものが無い怖い物のない状態でした。

そこから半世紀以上を過ぎて様々な経験や人との出会い持ち物など沢山獲得してきたのかもしれません。

 

何も持たない出発地点は今でも私にとって、大切な決意の時だったように思います。

子供の頃、自宅の三文判でめくら判を押して「社長さんごっこ」なるものをやっていたのを思い出します。図らずも一応その夢は叶ったわけですね。