☆1年前のこと
その日、珍しく両親がオフィスにやってきた。
両親は私のオフィスから車で5分のところに住んでいるが、会社の状態が悪く、私自身が鬱病になっている中、半年ほど両親と顔を合わせていなかった。
父は酷く痩せて老け込んでおり、母もやせ衰え頭髪が薄くなってしまっていた。
一体、何があったのだろう?
母の話しはこうだった。
半年ほど前から、両親の家の近くに住む伯母(母方兄嫁)が、両親に対して度々「家を壊して出ていけ」と怒鳴りつけるようになり、状況を理解するために話し合おうとしても、一方的に伯母が母を非難し、延々と暴言を浴びせかけるらしいのだ。
両親が住んでいた家は、自分達がローンで購入したものだし、敷地は母方の祖父から売買により譲り受けたもので、登記は父についていた。
元々3mの高低差がある農地で、土地としての価値は低いものだったのを、両親が自分達の費用負担で農地転用の上、造成したものだった。
当然、伯母から出ていけと言われる筋合いはどこにもなかった。
しかし、伯母の言い分は、祖父が母に土地を売却することに対して自分は反対だったから、今両親がそこに住むことを自分は許していない・・・という理屈だった。
う~ん、話が通じる相手ではないようだ。
勿論、法的にも常識的にも両親が出ていく必要などどこにもない。
しかし、すぐ近所に住む伯母と対立しながらでは、これから先両親が快適に暮らしていくことなど望めない。母は精神的に参ってしまい、「今まで世話になったんだから、最後におねえさんが望むようにして出て行きたい」などと言っていた。
私自身も鬱だったから正常な判断もできず、母がそう望むのなら・・・と考えていた。
ただ、ちょっと気になったから母に聞いてみた。
どんなことで伯母さんの世話になったの?
昔、お茶飲みにおいでってよく誘ってくれた。
それだけ?
天ぷらうどんの出前を頼むからおいでって誘ってもらったこともある。
おい、そんなことかよ!!
母も70歳を過ぎたばかりでまだしっかりしているが、どうも、自分がしてあげたことは覚えてないのに、してもらったことはちょっとしたことでもずっと覚えているらしい。
天ぷらうどんの恩の為に、自分の住む家を差し出すのか?
今思えば、その頃は母もかなり鬱入ってたんだろう。
そんなこんなで、急遽両親は私の家に避難することになり、とにかく家を空っぽにすることにした。母が希望するように無条件で開城するにせよ、他に売却するにせよ、いずれにしても両親がこの家に住み続ける可能性は無く、いつでも処分できるようにする必要がある。
話しの通じる相手ならば、住み続けて立退料を含めた買い取り交渉も考えられるが、それができる相手ではないし、伯父は発言権は無いし、60歳近い一人息子はどうやら母親と同じ考え方のようだった。
翌日から片付けが始まった。
伯母を喜ばせるために、両親が泣くことになるのかもしれない。
自分の墓穴を自分で掘るような作業だった。
正常な判断力があれば、そんな必要はない・・・と誰でもわかるはずだが、私も母ももう正常な判断力などカケラもなかった。
その時の私にとって一番ショックだったのは、死ねなくなったことだった。
いつからか「ゆっくり休みたい」という気持ちが「死にたい」に変わっていた。
逆に言えば、この問題で私は命を救われたのかもしれない。
私が死ぬかもしれないと心配していた両親の思いが、天に通じたのだろう。
すべきことができたことは、鬱症状の緩和につながった。
余計なことを考える時間が無くなったからだ。
☆それからの1カ月
両親の家は半年前にリフォームしたばかりだった。
床下とキッチン、畳の入れ替えなどで約200万円の工事をしていた。
何年か前には庭を作り、これからのんびりと余生を過ごすつもりだった。
引っ越しは業者に頼むことができず、私と両親だけで全部を運んだ。
運ぶ先が一か所ではなく、分別の必要があったからだ。
私の自宅の六畳間に持ち込める荷物は限られているから、その他どうしても必要な荷物は月額2万円で借りたコンテナ倉庫に運び込み、押し入れの中のまだ使えるものはリサイクルショップに持ち込み、捨てるしかないものは市の処分場へ運んだ。
父は心臓が悪く何年か前にはよく意識を失うことがあった。
そして、母は作業初日でギックリ腰になり、戦力にはならなくなった。
私の車(グランビア)の座席を倒し、自宅へ、倉庫へ、リサイクルショップへ、処分場へと、それぞれ何十回運んだだろう?
ダンボールに詰める思い出の品を見て、何度涙を流したことだろう?
小学生の頃子供会のソフトボールで使っていたバット、中学生、高校生の頃に使っていた楽器、両親が若かった頃を思い出すと、今のみじめな二人の姿が悲しい。
せめて私にお金があれば、もっと快適な場所に小さな家でも建ててあげたかった。
両親は作業をしながらも、いつ伯母が怒鳴り込んでくるかわからないという思があり、落ち着かない。だから、土日祭日もなく毎日作業をして早く片付けたがった。
しかし、伯母は私達が片付けを始めたのを知ってご機嫌の様子で、一度などはみかんとおかきの差し入れを持ってきた。
これ(両親の追い出し)がうまくいくように、ご先祖さんに毎日お願いしていると言っていた。
一番近いご先祖さんが売ったものなのに、
娘を追い出すお願いをしてどうする?
伯母はかなりキツい人で、祖父も祖母も一番可愛い末娘である母に近くにいてもらいたかったようだった。
伯母のことはあまり思い出したくないが、オバサンパーマでいつも白い割烹着を着ている。
正面を見据えて頭を動かさずに歩く姿は、ターミネーターを思わせる。
つまり、オバサンパーマで割烹着を着た、背丈の低いターミネターと言えばピッタリだ。
ハーレーに乗ってショットガンをぶっ放す伯母の姿を、ありありと想像できる。
間違ってもT-Xではない。
片付けが完了したのは年が明けてのことだった。
今年こそは良い年になってほしい。
いや、せめて何もない平穏な年であってほしい。
しかし、そうなるはずがなかった。