日本に鉄砲が伝えられたのは、1543年、ポルトガルの船が種子島に漂着したとき、と習いました銃

 

明に向かうポルトガルの船が、九州の種子島に漂着し、そのとき島主の種子島時尭がポルトガル人から鉄砲を入手しました。

 

このことは、時尭の孫の種子島久時が南浦文之に書かせた「鉄炮記」に残っています。

 

鋳物師の八坂金兵衛がポルトガル人船長に自分の娘を指しだし、その代わりに鉄砲の製法を教わったともいわれています。

 

ところが、実際に日本に鉄砲が伝わったのはもっと前で、しかもポルトガル製ではなく中国製だったという説があるんです金の玉鉄砲

 

日本の史料では1543年ポルトガルなのですが、ヨーロッパの史料には異なる記述があります。

 

ポルトガルより日本との交流が深い中国でも、鉄砲は早くから存在していました。

 

中国では13世紀の前半から、原始的なものではあるものの、鉄の筒に弾をこめて、それを火薬で飛ばすという武器が発明されていました。

 

中国人の倭寇がそれを日本に伝えていたとしてもおかしくない話です。

 

日本での鉄砲伝来を伝える史料というのはほんのわずかなので、信憑性は低いといえます。

 

しかし、高い技術を誇る日本の技師たちによって、どんどん改良を重ねられた鉄砲は、戦国時代の戦略を大きく変えていったということは、紛れもない事実なのですピストル

 

藤原惺窩(ふじわらのせいか)という人を知っていますかはてな

 

彼は江戸初期を代表する儒学者で、徳川家康の御用学者・林羅山(はやしらざん)の師でもありました。

 

中世を代表する歌人・藤原定家の十二代目の子孫でもあり、その血筋を重んじて毅然とした生き方をしていた人物です。

 

そんな惺窩があの徳川家康を一喝したという話があります!

 

惺窩が家康と出会ったのは、弟子である羅山が家康に師の講義を受けた方がいいと勧めたからでした。

 

惺窩の講義を受けることになった家康ですが、そのときの格好がだらしないものだったそうですがっかり

 

惺窩が部屋に現れると、家康の前に座ります。

 

ところが、いつまで経っても惺窩の講義ははじまりません。

 

待ちくたびれた家康が「惺窩殿、いかがなされた」と訊ねると、惺窩は声を荒げて家康を一喝したんだそうです雷雷

 

「今日講じるのは、聖天子の治国平天下の法則。身を修め、家をととのえる聖典にござりまするぞ。何ぞ、その服装は!」ぷんぷん

 

これには天下の家康も驚愕し、きちんと身なりを整えて、改めて受講し直したといいます。

 

このことは、「明良洪範」という書物に記されているんだそうですよ。

 

悟りを開いた偉大な人物ともなると、天下人にも一喝できるほどの度量になるってことですかねてれ(苦笑)

 

わたしたちが日常使っているのはアラビア数字で、二千年ほど前、インドの算術書にあったものがアラビア語に翻訳され、ヨーロッパに伝わったものです。

 

ヨーロッパの手写本中、976年にスペインで書かれたものが最古のものといわれ、これにはゼロはなく、ゼロが現れるのは12世紀以降のものになります。

 

ゼロは当たり前のように使われていますが、ローマ数字や漢数字にはゼロはありません。

 

アラビア数字の306は漢数字では三百六と表記し、ローマ数字ではCCCVIとなります。

 

アラビア数字では、3が百の位、0が十の位、6が1の位というが一目瞭然ですが、漢数字やローマ数字ではわかりにくいですね。

 

ローマ数字では、I=1、X=10、C=100、M=1000で、漢数字でも十、百、千などを書き添えなければいけません。

 

ゼロを使うと、書き並べるだけで数字がどの位にあるかすぐわかりますキラキラ

 

ゼロのない漢数字やローマ数字の場合は、位を表す語である十、百、千などを使ったり、X、C、Mなどを使わなくてはいけません。

 

アラビア数字ではゼロが発明され、0と9つの数字を使ってどんな数も容易に表すことができます!

 

足し算、引き算、かけ算、割り算、さらにもっと複雑な数の計算も簡単にできるようになったことで、数学の発展に役立っているんです。

 

電車で乗り越しをしたときは、不足分の料金を精算する必要があります。

 

それなら、途中の駅で用事を思い出して下車したり、160円の切符でいいのに間違えて190円の切符を買ってしまったが、気がついたのは電車に乗ってからだった…などという場合は、払い戻しをしてくれてもよさそうなものです。

 

なぜ、乗り越し以外の払い戻し清算はできないのでしょうかはてなマーク

 

JR東日本によると、「鉄道営業法」という法律で、一度改札を通過した切符は払い戻さなくてもいいと定められているそうです。

 

ただし、JRではこれを緩和し、長距離の場合のみ払い戻す制度があるようです。

 

有効期間内で、乗らない区間の距離が100キロメートルを超える場合のみ、すでに乗った乗車区間の料金と手数料210円を差し引いて返金してくれます。

 

普段こういった状況はあまり発生しそうにないですが、たとえば、東京から九州の支社に出張するつもりで新幹線の改札を通ったあと、会社から連絡が入って、出張先を大阪支社に変更するようにいわれた…などという場合には助かりますほっこり

 

要するに、払い戻しの制度は、本来ならば法律上おこなう必要はなく、あくまで客へのサービスとして位置づけられているようです。

 

 

岐阜県は、北部の飛騨と南部の美濃では少し異なる歴史や風土をもちます。

 

江戸時代に天領だった飛騨は強烈な郷土意識をもち、独自の民族を育てることになりましたが、美濃はそれ以前の戦乱の時代の歴史がいまも尾を引いているようです。

 

美濃は東西交通の要所でしたし、ここを制することが戦国武将の勢力を左右したため、幾度も戦乱の舞台となりました。

 

そして支配者が変わるたび、どんな領主でも従わなければならなかったのです。

 

そこから、このあたりの人々の気質として備わったのが、傍観者を決め込み、結果を冷静に判断して相手次第で合わせていける融通性でした。

 

いまの県庁所在地岐阜市を中心とする南部は、その意味で完全に名古屋の支配下にあると、住民たちは自覚しています。

 

中京経済圏の中心名古屋のベッドタウンと化しても、それを積極的に否定はしません。

 

例えば、名古屋県人は喫茶店が好きです音譜

 

モーニングサービスの品数が多いとか、メニューもファミリーレストラン並みにバラエティに富んでいて、自宅の応接間、会社の会議室がわりに気軽に利用するといった風潮があります。

 

そして、その喫茶店の使われ方は名古屋そっくりな様子なのです照れ

春になると毎年いろいろなところにでかけるのですが、今年は忙しくてあまりお花見に行けませんでしたやじるし

 

なんだかんだいっても、やっぱり年に1度は見たいなと思います桜咲く

 

じつは、サクラはバラ科の植物で、同じ仲間にイチゴもいます。

 

バラ、サクラ、イチゴ、一見共通点などなさそうなイメージですけどね。

 

植物の分類にとって木であったり草であったりは関係ないんですって。

 

多くの草は、その祖先をさかのぼっていくと木に行き着くらしいですよ。

 

草でも木でも同じ祖先をもっているということで、同じ科に分類されています。

 

そもそもバラ科の植物というのは、「花びら」と「がく」が5枚ずつで、おしべがたくさんあるのが基本の構造。

 

最近のバラは花びらがたくさんあるものもありますが、それは品種改良されたものバラ

 

もともとの野生のバラは花びらは5枚です。

 

技術の進歩でDNAの解析も進んでいますが、バラ科の植物を調べてみるとやはり共通の特徴を持っていることがわかってきました。

 

バラ科の植物には、サクラとイチゴ以外にも、ナシやリンゴ、ビワなどもいるんですよ!

 

バラ科の植物って、きれいなだけではなくて、おいしいく実をつけるものもたくさんあるんですねハート

岐阜県の県民性をひと言で表すことはできません…

 

なぜなら、地理も生活様式もまったく違う、2つの地区が一緒になって「岐阜県」になっているからです。

 

2つの地区とは「飛騨地方」と「美濃地方」!!

 

飛騨地方にとって一番近い都市は富山県。また、明治初期には石川県に入れられていたといういきさつもあり、飛騨と美濃の間に共通点はあまり見られません。

 

名古屋に近い美濃地方は、過去に幾度となく戦場になったところです。

 

古くは壬申の乱(672年)から関ヶ原の戦い(1600年)まで、戦乱は数知れず。

 

また、江戸時代に入ってからも、その貧しさから農民騒動が頻繁に起こり、民衆が多く命を落としたという厳しい土地です。

 

戦いに敗れた落人武士がそのまま美濃の農民になって住み着くことも多かったため、美濃の人の性格も基本的には武士気質!!

 

質素倹約と質実剛健を太柱に、いつのまにか忍び寄った敵に寝首をかかれないための用心深さが身についているのです。

 

現在の美濃の気質は、「温厚」で「人当たりが良い」と言われますが、表面的な穏やかさの裏には、粘り強さや蓄財精神がひそんでいるのです!!*

 

まじかるクラウン Q1.ニックネームは?

ぐーたん

ラブ Q2.最近のマイブームは?

無心になって食べること

バナナ Q1.好きな食べ物は?

飛騨牛

 

 

熊しっぽ熊からだ熊からだ熊あたまクマムシくん音符