目が覚めたのは、
静けさが理由だ。

自然に囲まれたこの地の朝は、
様々な音と隣り合わせだ。
鳥の囀り、
風が揺らす木々の葉擦れ音、
虫の鳴き声。

この日はすべての音が無かった。
その静寂の違和感の中で僕は目が覚めた。
僕は眠っている妻とチサトを起こさぬよう、
静かにベッドから出て、
リビングに向かった。

夜は既に明けているようで、
カーテンの隙間から青暗い光の筋が入り込んでいる。僕はチェアに掛けていたカーディガンを羽織りカーテンを開けた。

そこには見たことのない世界が広がっていた。

目に見える全てが、
白。白。白。

色を構成する万物の境目が無く、
まるで純白な漆喰の壁と向き合っているような
錯覚に陥ったようだった。

白い壁のような景色が徐々に奥行きを持ち出すのと、意識が昨晩までの記憶の線に辿り着いたのはほぼ同時だった。

雪だ。

窓を開けるとベランダの屋根に積もった雪が音も立てず落ちた。

そこにはあるべきものがなかった。
まるで世界に蓋を閉じるように、
目に見えるべきもの、
聞こえるべきもの、
香るべきもの、
感じるべきもの、
全てが雪に覆われていた。

僕は玄関のシューズラックから大人用の長靴とチサト用の長靴を持ってきてベランダに出た。

チサトは雪を見たことがない。

チサトが生まれて東京で過ごした期間で、
彼女の上から降って来たのは雨と
桜の花びらだけだ。

僕は満開の桜の樹の下で、
チサトを肩車して散りゆく桜の花びらを感じた日を思い出す。チサトは楽しそうに手を広げて桜の花びらを全身で受け止めていた。

それは僕が自然の中でチサトを育てようと決めた瞬間でもあった。

仕事は順調だった。
歳を重ねる度に責任が増し、
比例するように意識にも仕事が侵食していった。

仕事から帰ると妻とチサトは寝ていて、休みの日は家事を手伝うが、「手伝う」と意識が抜けずそこに主体性は無かった。育児でさえ「手伝う」という意識が無かったかと言ったら嘘になる。

そして仕事と家庭の間に自分の時間が無いことへのストレスを感じることもあった。

そして、
妻の心労を気遣う心や言葉は全く無かった。

どうにかしなければという想いが心底にあり続けていた。

自分の身の振り方を決するきっかけなど、
今となっては大それたものではなかった。

小さな公園で、桜の花びらを全身で受け止めているチサトを肩車している。
そのシーンが、複雑に絡み合った意識のほつれを解くことになった。

家族の為に生きていく。

当たり前のことに気がつくのに、
僕は何年の月日を費やしてきたのだろう。


つづく