選んで体験して感じること
今日は、お楽しみが待っている日でした
わくわくが待っている日でした
約束の時間がきて、楽しい気持ちになりました
でも、いつもとちょっと違う自分の感覚がありました。
自分の誕生日よりわくわく嬉しい、待ち遠しい日でした。
そして
嬉しい楽しい時間を過ごしてみて思いました。
“いつもの日常にプラスαだ。”
小さい頃から、わりと苦しい感覚でいる時間が長くて、わたしの人生に嬉しいとか楽しいとか幸せな時は本当に起こるのだろうか?起こる気がしない、という意識を心のどこかに持ち続けていました。
嬉しい楽しい、幸せは確かにあったのですが、日常的に目の前にある苦しみに埋もれていたんだと思います。
たとえ良いことがあっても、また嫌な感覚に戻る………
その嫌な感覚は家や家族によってもたらされるものだったので、逃げられませんでした。
楽しいとか嬉しいとかいう感覚は、あるようでないようなものでした。
わたしにとって、幻でした。
わたしが日常的に感じていたのは、苦しさでした。
『生きづらさ』です。
どかーん!と大きな苦しみがあるのではなく、毎日じわじわ、じわじわくる苦しみ。
もや~………っとわたしの周りを覆って、な~んか嫌~な感覚がまとわりついていました。
何となく辛い
何となく苦しい
何なんだろう???
大人になって気づきました。
あの感覚は『生きづらさ』でした。
いつも、何とな~く憂鬱。
いつも、何とな~くつまらない。
いつも、何とな~く苦しい。
30年以上、その何とな~く息苦しい感じできました。
で、その何とな~くが、ハッキリくっきりガツーーーーン!!!と姿をあらわしました。
鬱
何年か前にも鬱だろうな、という時期がありました。でもその時は環境の変化が功を奏して改善しました。
でも今回は坂を転がるように、悪化していきました。環境の大変化によって。
鬱や躁鬱が常態化して約3年、少しだけ楽になってきたここ半年。
あの3年は生きづらいなんてもんじゃありませんでした。
生きながら死んでいるようなものでした。
自分が呼吸をしていること、心臓が動いていること、怪我をしたら痛いこと、血が出ることが不思議でした。
生きてる気がしないから。
自分で分かるんです。
“あぁ、わたし毎日毎日死んだ魚のような目をしてるなぁ………”って。
生きている証拠が辛かったです。
辛かったというより憎かったです。
息が止まればいいのに
心臓が止まればいいのに
生きてる自分の体が憎かったです。
体がなければ鬱なわたしはいないから。
そういう日が約3年続いたので、この半年の日々は、天国!とまではいきませんが(笑)
あの3年は何だったんだ???と感じます。
まだまだ心がちぐはぐな時はありますが、少しずつ嬉しいとか楽しいとか幸せとかを、ちゃんと感じる時間が増えてきていると思います。
自分で選んで体験して感じているという感覚。
それがわたしの中で起こると
いわたしはわたしを生きてるんだなぁ~
と、じんわり感じることが出来ます。
怒りや嫉妬、罪悪感も感じます。
すごく嫌です。
ですが、沸いてきてしまうものは仕方ないし、それが当たり前。
人間として当たり前のことだと分かりました。
嫌な感覚が前面に出てくると、飲み込まれそうになります。たまに飲み込まれているかもしれません。
特に怒り。
怒りは結構簡単に外に出せる感情だなぁと思います。というか、嫉妬や罪悪感などが怒りの素になっているのかなぁと思います。
だけどたくさんの人の中で生きているならば当たり前のこと。仕方のないことなら、無下に自分を責めたりせず、怒りは外に出して昇華させればいいと思います。
外への出し方がポイントになると思います。
やり方は色々あるみたいなので、自分にしっくりくる方法を試して見つけてみると良いと思いました。
約3年、自分の死を毎日深刻に考えました。
深海を這っているような時間でした。
そこから少し上がって、喜怒哀楽が出せるようになりました。出して、感じるようになりました。
良いことも良くないことも全力で心が感じるようになりました。
良いことを全力で感じたら、天にも昇る高揚感や幸せで満たされます。
良くないことを全力で感じたら、マグマが頭のてっぺんから吹き出しそうだったり、辛くて胸がえぐられるように痛みます。
良くないことを全力で受け止めることは、とても苦しいです。
でも、生きるしかないと分かったので、苦しいけど仕方ない。今は仕方ない!と諦めがつくようになりました。
人生を全てこういうもんだ・こんなもんだ、とするんじゃなく、人生には波があることを受け入れるということ。
「こんなもんだ」は理不尽さを受け入れる時に、深刻さへの突入を止めるストッパーになると思います。
わたしの人生なんてこんなもん…、みたいな投げやりさを含む「こんなもん」じゃなくて
捉え方一つで深刻に感じることを軽やかに捉えられるきっかけになる「こんなもん」であってほしいなぁと思っています
わたしは「こんなもん」をうまく使えていなかったのかもしれません。
でも、一人一人特性や性質があるので、合うやり方やタイミングがあるんだと思います。
あの死んだ魚のような目をして深海のような毎日を生きた3年間の経験から、わたしはこんな風なことを思っています。
あの時と比べると、気持ち波がだいぶフラットになってきた気がします。感情を持つ人間だから完全にまっ平にはならないけど、感情が波打った時にその波の動きを以前よりは客観視出来てるのかなぁという感じです。
そういう感覚でいられる時間が増えると、
少しずつ自信が戻ってくるし
少しずつ生きてみてもいいかなと思う
そう思う時間が増えると
不思議と日常が楽しく感じる。
もちろん楽しいことだけじゃない。
楽しくない気持ちや苦しい気持ちと向き合った時、
さて、この嫌な感じとどう向き合うか?って
少しでも思えると、楽になれる。
楽になれる体験が積み重なると
またどうにか対処出来るか~という自信がつく。
そうなると、びくびくや恐怖、警戒心が減ってきて
ゆる~く居られる時間が増える。
→楽に居られる。
あら?
おんなじこと言ってる??w
ゆるく楽でいられると、軽やかにいられて
それだけで少し口角が上がったり、楽しいことしたいなぁ~って思えたりして、具体的に何にも行動してなくても心は満足してる。
今日、お楽しみな時間を過ごしてみて
わたしの最近の日常は、そんなに悪くないのかも、って感じました。
特別なお楽しみは御褒美
もし、御褒美がなくてもまぁまぁ満足してるのかもなぁ~、って感じ。
前はね、御褒美が欲しくてたまらなかったし
御褒美がないと生きられない!位に感じていました。
御褒美は嬉しいんだけど、特別な何かがないと無理!な状態だと日常は少し苦しい。
御褒美があったらラッキー位に捉えられると、余分な力が抜けて軽やかでゆる~く楽でいられます。
それがわたしには合っている気がします
今日の感覚は、わたしにとってとても大事です。
あの3年間を成仏させられる気がします。
無かったことにするんじゃなくて
“今日のわたしに繋がる道を作ってくれて、ありがとう”と捉えること。
ちなみに今日のお楽しみな時間はこちら…
みんなでお祝いする時間でした、