バランスがとれていない状態が多いんだ。
過剰と不足が極端過ぎた。
今も時々そんな感じ。
気持ちの問題なのか。
捉え方なのか。
ものの見方なのか。
今の自分の状況と自分の感覚のギャップ。
そのギャップが大きいほど、気持ちも体もしんどい。そのギャップを感じる時間が長くなるほどしんどさは続く。
しんどいのは良くない。
これは絶対良くない。
放置してはいけない。
必ず、いつか、心身のどこかにダメージが現れる。
人との関わりもしんどくなる。
人間には、やっぱり体温を感じられる空間で、誰かと時間を共にする機会が必須だと思います。絶対に。
合わない関係なら離れればいい、離れたほうがいい、という体験ができる。
話すと楽しい、面白い、そういう人間がいるということを体験ができる。
自分以外の誰かと接触(会話、雰囲気を感じる、声を聴く)することで、お互いの心身に何かしらの動きが起こる。
何かしらの動きが良くないことの時もある。
良くない気分になる。
最悪な気分になる。
落ち込む。
落ち込んで、元気(元の気に戻ること。アクティブ、活発な状態だけに限定されない。快でも不快でもないことも含む。)になろうとする心身の反応があればいいけれど、そうなれないこともある。
元気になろうと思うためのエネルギーが枯渇している。
それが鬱なのかな、と、わたしは感じました。
(医学的には間違っているかもしれません。)
落ち込んでも、そのままで留まらなければ、何かしら動いていく。
わたしは2~3年、元気になろうと思うためのエネルギーがほぼ無い状態が続いていました。
元気になろうと思うことが出来ない。
元気な自分になりたいけれど、、、
元気になろうと思うためのエネルギーが無いので、なりたいけれど行動に移せない、何をすればいいのか分からない。
何にも出来ない………………
やっぱりダメ人間だ。
負のループでした。
わたしがその負のループを抜けることが出来たのは、『人』です。
人との御縁が、今日までのわたしの命を繋いでくれました。
引っ越しにより生活のほぼ全てが変わりました。
当たり前にいつも買えた、大好きなパンが買えなくなりました。パンが好きなので、結構ショックでした😅
繋がっていた人との何気ないやり取りが失くなりました。
これまでだったら、ちょっと話していた、ちょっと寄らせてもらった、そういう毎日の何気ない信頼する人たちとのちょっとした関わりが一気にゼロに。
そこに、子どもたちの予期せぬ課題。
誰も・どこも知らないのに、毎日毎日困る。どうしたらいいか分からない。誰に何を聞けばいいのか分からない。訳が分かりませんでした。
そんな中、探していた次男の入園先。
どの園も電話の時点で無理と分かり、ようやく見学に行った園。
ですが、次男は違和感を察知して玄関をうろうろして外へ。対応してくださった方との相性が良くないのだとすぐ分かりました。わたしも嫌な感じがしました。
『またダメ…もう無理…。』
その園の駐車場に停めた車内で動けなくなりました。
怒り、大きな声を出しました。
次男は疲れて寝ました。
わたしがこんなに悔しくて疲れ果てて、何にも楽しくないのに、息子は寝ている………
多動性、衝動性の強い行動に、いつ不慮の事故に遭うか毎日毎日神経を尖らせて、園も探して、長男の登校に付き添い・そのまま廊下で待つ生活の繰り返し。
慟哭しました。
車の中で怒り泣き叫びました。
ドアを叩きました。
それが、先ほどの園の方に聞こえたのか…は分からないのですが、わたしの様子を見てきてくれました。
まぁでもその時のわたしは誰も受け付けられない心境だったので、窓を開けるか迷いました。様子を見に来られるほうが迷惑でした。気まずかったし…。
それでも、わたしは窓を開けました。
すると、その方が教えてくれました。
“市の保健師さんなら色々知っているかもしれないから、ここに連絡してみるといいですよ。”
メモをくれました📝
“………………今さら………………”
“こんなにボロボロになっているのに…電話なんかしたくないし、もう知らない人と新しく知り合うなんて面倒だし……………もっと早く教えてよ!!!”
情報くれた人にそんな失礼な…今はそう思います。
あんなにブーブー文句を言いましたが、わたし、結局、保健師さんに連絡しました🤭アポとりました。
本当ーーーーーーーーは、したくなかった。
でも………………
“連絡したほうがいいよ”
わたしの中の一部が言ったんだと思います。
直感だと思います。
“何でわたしばっかり、こんなに大変なの?”
“何でわたしばっかり、頑張ってるの?”
困っている、悩んでいる、そのことを人に相談するのは、とても勇気が要りました。
困っている、悩んでいるということは、わたしがダメだから。自分のダメな部分を晒すなんて………恥ずかしい………。
でももう恥ずかしいとか、自分はダメとか、構っている余裕はなかったので、最後の望みをかけて保健師さんに話しました。
そこから、こども園、病院(息子たち、わたし)、訪問看護、居場所、デイサービス、市役所、コミュニティ………へと繋がってこられました。
始めの3年間はほぼ毎日死にたいと考えていました。
コロナ禍でもありました。
生きていたのは奇跡のようなことでした。
始めの3年間は、子どもに最善の環境づくりを一番に行動しました。あんなに覚悟して生きた時間はここから先、もう無い気がします。
でもあの時、覚悟と同時に「子どもに最善の環境づくり」への“執着”に近い感覚も生まれた気がします。
自己犠牲している自分に陶酔して気もします。
自己犠牲していれば良いことがあるだろう、神様が御褒美をくれるだろう、と思っていた気がします。(本当に御褒美みたいなことはありました🤭)
我が子=大切な存在=どうしても注力する=自己犠牲になったとしても
⇒我が子のために生きている感覚
⇒わたしが用意した環境全てが子どもに適しているとは限らない
⇒血を吐くようなわたしの努力が無駄だったような感覚。
⇒絶望
端から見ると「子どもに執着気味」だったみたいです。少しイラッとしましたが(笑)、確かにそうだったかも…と思いました。わたしの様子を率直に話してくれる存在はとても貴重でありがたいものですね。
イラッとするということは、多少なりともわたしの中のどこかが反応している証拠です。
何か引っ掛かっているってことです。
「イラッ」をイライラで終わらせず、何だこの
「イラッ」は???と、観察しました。
イライラの理由はハッキリしませんでしたが、イライラを自分から少し離して観察出来たことで、
“イラッな自分”が昇華しました。
成仏した感じ👼
話が逸れましたが………
にっちもさっちもいかず、苦しみの鎖に縛られているようでどうしようもなく悲しくて悔しくて辛くて、死にたいと毎日毎日考えていたわたしが
今日8月25日(日)もこうして生きていられるのは、
どんな時も『人と関わってきた』からです。
関わらないようにしていた時期もありました。
それでも、そういう時は専門家(心療内科、訪問看護)の人に全て話して関わってもらいました。
●何かあれば連絡していい
●どんなに緊急でも助言してもらえる、助けてもらえる
●どんなわたしも否定されない
そんな関係性、安心感のある人間関係を選んで関わりました。渦中の時はそんなに冷静に考えられませんでしたから、きっと直感でした。
答えは全てわたしの中にありました。
誰かと関わる、ネット上も素晴らしい
でもいつかは、直接、体温を感じる距離で関わってほしい。
子どもたちが人とあまり関われない時は、とてもイライラしました。今もかな………。
離れる時間がなかったから。
けど、イライラの理由、もうひとつ見つけました。
人との関わり、目の前の出会いがどれだけ大切か。
子どもたちはその貴重なチャンスを無駄にしている気がする。これもイライラの理由だと思います。
自分だけでは偏ってしまう心や体のバランスを、誰か(家族以外)と関わることで調整している気がします。
死にたかった頃、何度も実行しようとしましたが、踏み留まってきました。
親への罪悪感と周囲(家族以外)に迷惑をかけたくないという思いでした。
でも、何度か「親は関係ないよ。わたしはわたしだもん。(だから死を選んでもいいという理屈。)」と思いました。それでも留まったのは、やはり周囲への影響です。
家族以外にも迷惑をかける………それは………………嫌だ………………。
誰かとの関わりが、わたしの命を繋いでくれました。
そうそう、あとはHey!Say!JUMPね!
わたしのDNAにはHey!Say!JUMPが刻まれているので、JUMPの世界を感じられなくなるのが嫌でした。
“あと1回コンサート行きたかったなぁ~”
“1回ぐらいMステの観覧行きたかったなぁ~”
とか。
絶望しているのに、こんなことも浮かびました。
案外呑気なわたしもいました。
絶望して前を向く気にもなれなかった時、、、どんな時もJUMPの歌を聴きました。脳みそに聴かせてきました
わたしがどんなに暗~~~~~い思考をしようと、良くない言葉を脳内に羅列しようが、
JUMPが伝えてくれる言葉は温かいし優しいし元気でした。(当たり前です(笑)そういう歌をレコーディングしてるんだから)
でもほんとに助けてもらいました。
DNAレベルで信頼している人たちの言葉は、わたしの暗くて重たい思考や言葉に上書きされます。
その上書きは消えてしまうのですが、忘れることはありません。
JUMPの姿を見て、歌声を聴いて、何度も何度も上書き。
その度に消える。
でも、体は覚えている。分かっている。
感覚です。
『JUMPなら大丈夫。』
揺るぎない安心感と信頼です。
この人たちを見続けていれば、絶対に大丈夫。
わたしの心身が良くないほうに向かっても、JUMPの魅力を理解しているわたしなら大丈夫。
必ず彼らの温かくて優しくて力強い想いと言葉が、わたしの心身を癒し、あるべきところに導いてくれる。
絶対大丈夫。
そう感じていました。
信じられました。疑いなんかありませんでした。
JUMPを信じているということは、自分の直感を信じているということ。自分自身も信頼している証でした。
長くなりました…(^∀^;)
いや~熱が入っちゃいました
力尽きました………
今日の燃料切れました。
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お疲れ様でした