ずっと、時々、浮かんでいる言葉があります。


「仕事があってもなくても、どっちでも良いと思うようになった。」(山田さん)

投げやりな「どっちでも良い」じゃなく、

「どちらでもOK👌どちらでも大丈夫👍」というニュアンス。



お金どうのこうのではなくて

どちらの自分でも楽しい、どちらの自分でもOKOK

“焦りとか欲とかを手放せた”みたいな意味が含まれているのかな~なんて勝手に考察してた。



どうやったらそうな風に思うのかなー?


お金に余裕があるからじゃないのかなー?


何だかんだお仕事あるから言えるんじゃないかなー?


とかも思った。




でも………………

絶対そうじゃない。


たぶん、たとえ、今とは違う山田さんでも

いつの日か、「どちらでもOK」と言える人だよなー。




仕事やお金にこだわらないって………………どういう………………????

( ´~`)もやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもやもや




その言葉を雑誌で見たのが、1~2年前。

ふとした時に考えてきた。


「どっちでもOK」



うーん☹️








その間わたしは鬱傾向や躁鬱傾向の中にいた。


苦しかった。

早く抜け出したくて、片っ端から色んな精神論や思考方法、無意識について触れた。

とにかく早く苦しみから抜け出したかった。


わたしはこんっっっっなに苦しいのに

かたや、何でも叶っちゃうような人がいる。

同じ人間なのに。

何で?


何で?



ムカつきながらも、そういう人たちの話を聞いた。


とにかく聞いて、読んだ。


嫉妬と苛立ち、焦りが結構うずめいた。






最近、また予期せぬ出会いに恵まれた。


そこでも「どちらでも大丈夫」というような話を聞いた。





どっちでも大丈夫なんてことあるかーー?!


またムカついた。

悔しかった。





それでも考え続けた。



“どっちでもOK”

“どっちでも大丈夫”





(ーωー)






んで、今さっき。

(ΘдΘ)雷


キタかもしれん………








たぶんキタ。

たぶんパズルのピースハマった🧩

“カチッ”て音がした気がする。

何かが上手くハマった時の音。





わたしは、ADHDとHSPのハーフで、鬱傾向や躁鬱傾向の状態にある。

その状態で3年半、適応障がいと発達障がいの特性を持つ息子たちとゼロから始めて接してきた。


引っ越しが終わって一息つく………………暇もなく特性に起因する二次障害の対応をしてきた。

自分の状態の面倒もみた。

もちろん、自分一人で全てこなしてきたわけではない。

だけど、助けてくれる機関も家の中や家庭の事情までは介入出来ない。

鬱傾向が強い中、息子たちへの対応を試行錯誤した。



自分で自由に過ごせる時間がほぼなかった。


働いてたらそんなものないよ?

わたしだってそうだよ?


そういう声が聞こえてきそうだが。


子どもたちが学校に行ってる間。

家から離れて自分が働いている時間。

子どもが当たり前のように登校、登園出来ること。


それがどれだけ凄いことか。



そのどれもがわたしの中から消えて、よく分かった。

それに、わたしの特性上、1人の時間が多めに必要。それが叶わない、いつこの状況から抜け出せるのか終わりが全く見えない。


1人の時間

予定を入れられる生活


そういう生活、わたしは諦めなくちゃいけないのか………………?


(T_T)



かなり葛藤した。

嫉妬して焦ってムカついた。









だけど最近少し変わった。

お薬で気持ちの波が穏やかになって、少し余裕が出てきたからかもしれない。

日常の「あるある」を見つけられるようになったからかもしれない。







1人でも1人じゃなくても、どっちにも楽しさがあることが分かった。


1人の時間がとれないと、わたしはダメだと思い込み過ぎていたかもしれない。


でも、確かに1人時間は必要。いや、必須。




けど………………家の中には手伝える大人がいるのに手を貸してもらえず、自分1人で家のこと子どもたちのことをこなさなければいけない状況が繰り返し起こる中で、“1人時間の定義”が変わってきたように感じる。


以前までのわたしが思う“1人時間”は

完全に1人(家に他に誰もいない、1人きりで行動する)ことだけ。それが1人時間だと、思い込んでいた。そうでなければ、1人時間とはみなさない!!ダメーーーーNGバツレッド


と、勝手に自分でジャッジしていた。



さっき、気付いたのは


“1人時間”て、完全な1人じゃなくてもいいんだ。

わたしがそう勝手に決めつけていただけ。

可能なら完全に1人が理想的。


でもそれは、今のわたしには非現実的。時々あるけど、次いつ可能か分からない。自分の意思だけで実現出来ない。

そこにイライラしてた。

“こんなに望んでいるのに何で?”

“友達はみんな出来てるのに、何で?”

嫉妬する自分にもイライラした。


自分の意思だけでは叶わないことを望み続けるのって、物凄ーーーーーーくエネルギーを消耗する。

なら望まなくていいのでは?

いや、それも違う。悔しい。

望みは捨てたくない。



さて、どうする?



こういう思考が続くのなら、たぶん一生こうだろうと感じた。





どんな状況であれ、良い面良くない面がある。必ずある。

メリットとデメリットがある。

光と影は隣り合うもの。


それなら………………………理想の1人時間が叶わない今でさえ、良い面もあるはず。

“あるある”を探し始めた。


わりといつでも寝られる。

調子がよければドライブ出来る。

心身の状態を最優先して行動できる。(今は仕事が出来る状態ではないから仕方ない、と許せる。)

良くない状況が続くからこそ巡り会えた人たち、良くないからこそ良くしようとかき集めた情報たち。

良くないからこそ、当たり前が素晴らしいと思えるようになったこと。

良くないからこそ感じられた希望の輝き。



良くないこともたくさんあった。

でも良いこともたくさんあった。



で、さっき。


家の中で完全に1人になった。




ずっと望んでいたことなのに

ひゃっほーーーーーーーーーー(≧▽≦)!

やーーーーーーーーーっとキターーーーー!!!


とは思わなかった。

( ・-・)


通常運転な気持ち。

何も変わらん。


そりゃ~完全に1人は心地好い。

普段はテレビの音や話し声、シャワーの音、トイレの音でかき消されている、

鳥の声、シーーーンという気配、洗濯ハンガーが風に吹かれてきしむ音………

いつもの家なのに、いつもと違う雰囲気。



これはこれでいいな。

と感じた。



こうじゃなくても、ま、いいけどね。


と感じた。


騒がしいのは不快だけど、永遠には続かないし、シャットダウン出来る場所を見つけたし。

何より、「どちらでもOKOK」と思えるから、OKOK


うるさーーーーいムキームカムカ

ってなることもたぶんあるけど…

またいつか必ず穏やかな自分に戻れるし、PMSのせいの時もあるし。

自分の世界に没入出来ることを見つけたし。


だから、どちらでも大丈夫グッ






ストーーーーンと腑に落ちてきた。

ストンとハマった。

山田さんの感覚が少し分かった気がする。

あの言葉の意味が分かった気がする。

『ヒカリサス』の意味を悟った時みたいだ。

光の柱が宇宙がスーーーッと降りてきて、わたしはその光の柱の中にいる感覚。



『どちらでもOK』