それは2007年春先。


母が癌だということがわかり急遽入院しました。


それまで母は健康そのもので病院にもかかったことのないくらい丈夫でした。


母は生まれは満州です。


それは戦争中に疎開する為に皆満州に渡った時お祖母ちゃん(私の母の母親)は妊娠しており、向こうで産んだ


そうです。


母には3人の兄と姉が1人。


一番末っ子でした。


そして満州を引き上げて日本に帰ってくる時、周りの人々は殆どの人が子供を全員は連れて帰らず置いていっ


たそうです。


それは女手一つで子供を全員連れて帰るのには無理があったと最近叔母が話してくれました。


でも。


私のお祖母ちゃんはまだ幼い5人(内、生まれて間もない赤ん坊一人)の子供を誰一人置いてくることなく連れて


帰ると聞かなかったそうでした。


戦争に出ていたお祖父ちゃんはまさか全員連れて帰るとは思っていなかったらしくまして末っ子の母なんて絶対


置いてくるだろうと思っていたそうです。


置いていかなければならなかった人々は助けてくれる人手もなく、それぞれがぞれぞれのことで精一杯で泣く泣


く仕方なく置いてこなければならなかった状況にあったそうです。


が、お祖母ちゃんは満州に住んでいた時、地元の中国人の人達にもとても親切だったらしくその恩というかのお


かげで帰る時船まで荷物やら子供たちと一緒で大変なところを助けてくれたそうです。


そして無事に船に乗り込んだお祖母ちゃん一行。


だけどもある日、末っ子の母が具合が悪くなり、お医者さんにももうだめだから水葬することを考えてください。


と宣告されたそうです。


赤ちゃんだった母が死ぬなんてお祖母ちゃんは一切言われたことを拒否し、一人一生懸命抱っこしながら祈っ


たそうです。


断固として水葬はしないと言い張ったそうです。


すると。。


母は生き返ったのですアップ


奇跡。。


私はその話を小さい頃から聞いていて小学校の時の一番世界で尊敬する人と学校で書かされたとき迷うことなく


お祖母ちゃん と書いたのを覚えています。


本当にお祖母ちゃんが大好きだった。


故に、一度死ぬ運命だったのが命を与えられたってことはこの生に意味がある。だから長生きするんだよ。


そういう人っていうのは天使


と物心ついた頃から言われていたのを覚えています。


だから母が癌になったとき、母にも、


ね、だからお母さんはまだまだ生きるんだよ。 お母さんみたいな人は簡単には死なないんだよ。


って話してました。


でもある時、それを考えていると 私を産むために生きた と降りてきました。


。。命を繋げてくれる為に。。


感謝で溢れました。。


そのおかげで私はここにいるし、レアも産まれた。


そう言えば。。通訳をしていたウルフもよくセッション中にクライアントさんに言ってた。


どんな両親でも一つだけ素晴らしい事を成し遂げた。


それは君に命を繋いだことだよ。


だからどんな両親の元に産まれたとしても、どんないやな思いや辛い思いを両親に対して抱いていたとしても


それだけで感謝するに値するんだ。って。


その事をまた思い出した。


(私は母に対して嫌な思いは全くありません。感謝のみです。大好きですドキドキ


今になって思うとお祖母ちゃんはとても念が強かった人だったんだな~と。


お花の先生もやっていたんだけどお庭も一人でずっと手入れしてお野菜やら果物やら作ってた。


植物に愛でられていたな~って。。


そして皆に愛を与えてくれる人でした。


そのお祖母ちゃんはある日東京の息子たちのところへ行くことになり、住み慣れた家、土地を離れなくてはならな


くなり、その1年後に肺炎で亡くなってしまいました。


私はその頃は香港に住んでいたと思いますが、母はお祖母ちゃんが亡くなった事を私や弟に教えてくれず、お


葬式にも知らなかったので行けませんでした。


なぜに言わなかったのか汗それは何度聞いてもよくわけのわからない言い訳を言ってましたがあせる


そしてやっと(それまで自分で行こうとしなかったのもあれだが汗)今年、お祖母ちゃんの息子、私にとっては叔


父が亡くなってお祖母ちゃん、お祖父ちゃん(福岡からお骨を移したみたいでした)もいる埼玉のお墓に入るとき


に行くことができて初めてお墓参りを弟とできたのでした。


でも、お墓に行かなくても心はお祖母ちゃんのことを思っていたし、祈っていました。


お祖母ちゃんの存在を感じることも何度もありました。


無理やり、行かなきゃって義務で行くより心からの祈りの方が良いと思っていたしお墓を作るということも私的に


は意味がないと思っているので(でも今はよりいろんなことが理解するようになってそれもありなのかと思うよう


になりましたけど、自分の時は創らないでとレアには言ってあります)だから特にそれまで無理して行こうとしな


かったあせる



今思えばお母さんが癌になってすぐのころ(見つかった時には進行していたので)らしき時期。


パリから成田に着いて、クルーバスに乗り新緑の景色を眺めながら新しい芽が出てその新しい命のエネルギー


に感動しながらぼーっとしていた時、いきなり右耳から ひろこちゃん とはっきりお祖母ちゃんらしき声で呼ばれ


たのです叫び


物凄く驚いたのでびくっビックリマークとしてもうハートがバクバク言ってました。


方言の訛ったトーンで小さい頃に聞きなれていた声、呼び方でした。


でもお祖母ちゃんの年寄りの声よりももちょっと若い感じではっきりとしていましたが、スピリットはどこかで30歳


くらいの姿を好んで現われるというのをどこかで読んでいたのを思い出してもしかしたら死んだのは年を取って


からだけどだから若々しく聞こえたのかもと思ったのでした。


その時はその意味がわからなかったけれど、その約1年後顔がぱんぱんに腫れて高木ブー状態(高木さんごめ


んなさいあせる)までほって置いたあげく(母はとても痩せていたので異常に腫れていたそうです)私の従姉妹のお


姉ちゃんがちょっとこれはおかしいと無理やり母を叔母に言われ病院に連れて行ってくれて発覚しました。


それも心臓の近くのリンパに転移してくれていたおかげで腫れたからわかったそうでそれも言ってみればラッ


キーだったねと話していました。


で、ある日、あの ひろこちゃん とお祖母ちゃんの読んだ声が蘇ってきてその意味がわかったのです。


そのことを母が亡くなって叔母に話したら、なんと叔母も丁度母が癌になっただろうという時期に夢でお祖母ちゃ


んが現われて叔母にお願いねと頼まれたのと話してくれお互いにお祖母ちゃんが知らせてくれたんだねとしみじ


み語ったのでした。。


でもじゃ、なぜ早期発見にならなかったのか。 どうして母が病気だとはっきりメッセージでもくれなかったのか


それはきっとそれが母の寿命だったからだと思います。


母が死ぬのを回避する目的ではなく行くべき方向に導いてくれるためのお知らせのようなものだったと思うので


す。


それを通してそれぞれやることがあり、学ぶことがあって。。


その時私はまだ癌のことを知らなかったおかげで初めて母と沖縄に(旅行自体母と行くのは初めてでした)レア


を連れて2回行けたのです。


今思えば、2度目の時かわけもなくきついとかだるいとか旅行中言ってた時もあったのでもうその時にはどんど


ん進行していたのかもと思います。。


でも母も楽しんでくれたしたくさん思い出もできたキラキラ


もちろんもっと、もっと一緒にやりたかったことはたくさんあるけれど。。


そして母が入院することになって福岡で何かいいヒーリングのところはないか、オーラソーマとか(ちょうどその時


学んでいたので)と検索してヒットしたのが ミステリースクール だったのです。



続く。