背の低い間接照明が効果的に灯る日本料理屋のカウンターでビールを四杯飲んだ。
のどぐろ、とか、飛騨牛、とか、私にはいまいち全貌が分からないものが多く、品書きを見ながら難しい顔をしてしまった。

好きなもの頼んでいいよ、と言われる事はなかなか煩わしいもので、あったら何でも食べるからあなたがてきとうに決めてよ、といつも思うけれど、それは私を食事に連れて来た、右隣に座っている四十代半ばのスーツ姿の男からすれば張り合いの無い姿勢なのだろうという事くらいは分かる。

みなちゃんが食べた事ないような美味しいご飯を食べさせてあげるよ、と言われ連れて来られたこの店は、
店内だというのにカウンター席から少し離れた所に重々しい石で周囲をくべた池があり、鹿威しが申し訳なさそうに何度も頭を倒している。

黒と金を貴重としたいかにも格式高そうな内装には、日本美を強調している掛け軸が要所的に飾られており、それらを足元の石畳に隠された照明が控えめに照らしている。
ある程度の階級の人間しか足を踏み入れることの出来ない場所だということは私でも察するに容易だった。


ようやく、何か野菜が食べたい、と言ってみると、様々な野菜料理の品名がずらりと書き並べられてあるページを男がひろげて見せてくれた。

どれも同じに見え、どれでもいいよと思いながら、どれも美味しそう、と、横にいる男に笑いかける。

じゃあこれにしようかと男が指したのは見開きのページの中で二番目に値段の高いもので、瞬間的に驚いてしまい、慌ててまた笑顔を作ったが、私の表情の機微など分かるような男では到底ないこともまたきちんと分かってはいた。


四杯目のビールも飲み終わろうかという折に、男が自分の妻の態度に関する愚痴をこぼし始めた。

どこかで聞いたことのあるような内容のそれは、彼の浅はかな本心が嫌でも見えてしまい私は取り繕ったような笑みを浮かべることしかできず、しかし私にある選択肢もまた、どこかで聞いたことのあるような台詞を言って返すということだけだった。

一体これは誰の脚本で、私たちは何の役をあてられていて、何のために私たちは芝居をし続けているのか、
世の中の男女のどれほどがこうした下手な小芝居を打ち合っているのだろうか、
くだらない、なんの面白味も、新しさも、心を揺るがすことも一切ない脚本、とるにたらない舞台装置、ト書き、店員Aが五杯目のビールを持ってくる、つまらない三文芝居は続いていく。






久しぶりに会った前の職場の先輩は私を見て痩せたかと尋ねたけれど、私が痩せたのではなく先輩が1.5倍くらいに膨れ上がっているだけだった。

いや先輩が太りましたよね、と、臆せずに言えば、彼女は上向いて大きな声をあげて笑った。
笑う時に上を向く彼女の癖は、彼女の天真爛漫さ、快活さをそのまま表しているようで見ていて心地がよいものがある。


都会の森をテーマにしているという表参道のカフェは、線の細い植物が異常に主張している外観も、シンプルだけれど細部にナチュラルテイストらしいこだわりが表れている内観も、全てがオーガニック製品だと店員が誇らしげに説明していたメニューも総じて、居座ることを反射的に躊躇してしまうほどに洒落ていて、
どこか居心地良くはないような気持ちにさせられる。

一人だったら絶対に入れないです、と言った私に、先輩はティーポットの中で浮かぶ茶葉の色を確認しながら、今まで連れてきた女のなかで陽子ちゃんが一番似合ってる、さすがだね、と嫌味なくにこやかに言い、その目元の皺は以前に見た時よりも深く刻まれているような気がしたけれど、他の四十二歳の女性より彼女は遥かに美しいことは確かだった。


先輩と共に働いていたのは青山にあるアパレルブランドの会社で、私は三年前に辞めたけれど先輩は変わらず今もそこで働いていて、きっと変わらず今も社員にも若いアルバイトにも好かれている。

愚痴らしいことを一切言わず、大抵の事はあの豪快な笑い方で済ましてしまうような人で、
久しぶりに会っても陽子ちゃんは変わらず綺麗ね、本当よ陽子ちゃんは働いてた時からまさに高嶺の花だったもの、そんなに謙遜する事ないわよ自信に満ちて良いタイプの女性よ、もう陽子ちゃんは変わらず品が良いわね、陽子ちゃんはきっと育ちが良いんだと思うわ、などと他意を含まずしてさらりと言えてしまう人だった。
私からすれば、体型や肌質などと全く関係のないところで年輪を重ねた自然な美しさと、人間としての出来がきちんと備わっている先輩の方がずっと輝いて見える。

恋人の有無を尋ねられたので仕事が忙しくてと笑うと、陽子ちゃんなら要領よくやれるでしょう、と先輩は私の顔を覗き込むようにして微笑み、私がその違和感を察しきる前に、どうして先週、私の夫とご飯を食べてたの、と言った。






三鷹のインテリアショップは値段も張らない代わりにファッショナブルな品も少なかったけれど、畳の間と相性の良さそうな、和柄の茶色い布団カバーを彼が気に入った。

私は畳の間で生活する事も億劫だし、寝具は布団などではなくクイーンサイズのウォーターベッドが良かった。
広いリビングにはとびきり大きな木製のダイニングテーブルを置いて、テレビは42インチ、寝室にはインテリアとしても違和感のない間接照明を、そのウォーターベッドの横に置きたかった。
しかし、私たちには致命的にお金が足りていない。


界隈では少し名が知れつつあるバンドでベースを担当している彼とは十二年前、私が中学一年生、彼が中学三年生の頃から交際していて、昨年、私の父がブチギレる形で半ば強引に結婚を取り付けたので、彼はこれからの生活に希望が満ち溢れている、といった様子ではない。

それは私と結婚する事に対して気乗りしていないというわけではなく、結婚する事により伴う責任や覚悟のようなものと真っ向から向き合っていることに依るものである。

彼はバンド活動の傍らアルバイトをしていて、更に一人の女と結婚までしてしまう。
将来への不安と日々戦い、より一層奮起しなければならない状況なのだ。
それをきちんと理解している彼を心から頼もしく思う。

長らく憧れていた新婚生活とは大きく異なる家賃七万円の1LDKのアパートで、妻としての私の暮らしが始まろうとしている。

そこそこ裕福な家庭の一人娘として恥ずかしいほどに蝶よ花よと育てられた私にとって、生活水準が低下する事だけはなんとしてでも避けて生きてきたはずが、
奇妙な事に、私は彼が何の職業に就いていようが、稼ぎが幾らであろうが、古い木造のアパートであらゆるものを節制しながら暮らしていくことになろうとも、厭わなくなっていた。

それがきっと愛なのねと感心したように言った母は、若い頃に数ある縁談のなかから資産家の父を選び結婚した。
母は私が幼い頃から「稼ぎのない男はだめなのよ」と繰り返し言っていた。
彼女が父と結婚する前に何を経験していたのかは分からない。


寝具コーナーからインテリアコーナーへ移ると、彼は展示されてある真っ赤な大きなソファに弾けるようにして向かって行き、ぼすんとソファの真ん中に座った。

それ座っていいやつなの、と私が訝しく尋ねると、彼はソファの面を摩りながら、おまえ真っ赤なソファ欲しいって言ってなかったっけ、こういうのすごくいいね、と笑った。

今は無理だけどソファはおまえの気に入ったの買おうな、と、恥かし気もなく、それどころか、どこか誇らし気に言うので、私もつい笑ってしまった。

私も座る、と、彼の横に行きソファに座ると、つんとした香りが鼻を掠め、心臓が大きく動くのが分かった。
思わず顔を顰め、これ何の匂い、と尋ねると、最近、薄くなってきた額を気にして使用しはじめている頭髪剤の香りだと言い、ああもう、あーあ、ばれたかあ、と、彼がおどけてみせた。
それはあの男の香りとよく似ていた。






心の表面張力はぱんぱんだった。

更衣室でストッキングを履きながら、どうか今日だけは何事もなく一日が終わりますようにと願った。
昨日も、おとといも、その前の日も、もうずっと前から、私はそう願っていたような気がする。


金曜の夜の店内はやはり客で溢れ、華美に着飾った女性たちがにこやかに男性たちに群がっている。
フロアに出ようとしたら白いハンカチが少し黒ずんでいる事に気が付き、更衣室に引き返そうかと思った矢先に黒服の男性が近寄ってきて、みなちゃん三卓に城戸さんがいらしてるよ、と言った。


城戸さん、と呼ばれる男が座るボックス席に向かうと、男は、お、と言って笑顔になった。
男の横に座っていた三十代の女の先輩が私が座れる位の間を空けてくれ、そこに滑り込んだ。

城戸さん、と呼ばれる男とは、三年前にアパレルブランドの会社を辞めてからすぐに働き始めたこの店で出会った。

男はすぐに私を気に入り、なおかつ店に利益を与えてくれる飲み方をしてくれるので店内での私の待遇も良くなっていった。


彼に対して男としての魅力を全く感じていないわけではないけれど、それよりも魅力的であるのは城戸さん、と呼ばれる男が私に与えてくれる多くのものだった。

高級な料理屋での豪華な料理、買い与えてくれる高価な洋服、アクセサリー、あらゆる欲しい物、もちろん水商売を生業とする女としての店からの評価も含め、彼が私に与えてくれるものはあまりにも多すぎていた。



先日はご馳走様でした、と言えば、いいんだよまた行こうと言われ、やったあ嬉しいと満面の笑みを見せてやる、化粧の厚い三十代の女の先輩がええどこに行ったのと言えば、すごく素敵な料亭だったんですよおとはしゃぐ素振りを見せる、また誰かの脚本をなぞったように小芝居を打っていると思った、ひとつひとつ、まるで皆がそれぞれどこかで台詞を覚えてきたかのように、それは円滑に、順序良く、進んでいく。

城戸さん、と呼ばれる男の水割りを再度作ろうとした際に水が入った瓶をグラスへ傾ける角度を間違え、瓶に入っていた水をほんの少し、左隣に座る三十代の女の先輩のドレスに溢してしまった。

あ、すみません、と言うと、先輩は瞬時に私を睨みつけ、テーブルの上に置かれてあったおしぼりを掴み取り、ドレスについた水滴を強く拭き取った、拭き取ったと思っていたら、ずっと拭い、拭い、拭い続け、それはもうまさにあてつけのように拭い続けていて、右隣に座る男からはあの香りがし、ばれたかとおどける彼の顔が浮かび、陽子ちゃんは育ちが良いのねと笑う先輩の声が聞こえ、奥歯をぐっと噛んだ時にはもう表面張力は限界を迎えていた、いやもう随分前から限界だったような気もする、ぎりぎりのところでその場を凌ぐようなことだけを念頭に置いて暮らしていた、溢れないように、細心の注意を払い、溢れないように溢れないように、たとえ何かや誰かにがつんと揺らされようとも、バランスをとるのは自分しかいない、溢れないように、どうか溢れないように、溢れないように、細心の注意を払い、溢れないで、溢れないように、お願い、どうか、どうか、お願い溢れないで、胸の辺りが締め付けられていく、きついから手を緩めて、呼吸が上手くできない、真っ赤なソファ、嬉しそうな彼、真っ赤なソファ、私も座る、真っ赤なソファ、どうか、首が熱い、身体中の神経が目元のあたりに向かって走ってくる、お願い、どうか、やめて、愛なのね、陽子ちゃん、みなちゃん、陽子ちゃんみたいな女が私は一番嫌いなの、陽子ちゃんは育ちがいいのね、ねえ一体何を考えてるのよ、何をしてるか分かってるの、おまえの気に入ったやつ買おうな、陽子ちゃんが一番似合ってる、みなちゃんが食べた事ないようなもの、ドレスを拭う手の爪先が尖っている、私だったらそんな事しません、溢れた言葉ではなかった、どこかから引っ張ってきた言葉、頬のあたりから何かがうわっと上昇してくる、溢れないで、どうかお願い、目が熱い、目が熱い、

左隣に座る三十代の女の先輩に耳元で、みっともないから裏に行って、と小声で言われ、ああ、と思った時にはもう遅く、私は城戸さんと寝ました、と言ってしまっていた後だった。

瞬時に静まり返る空間、これはきっと三幕なのだ、そして三幕の終わりに近づいている、まだ私には台詞が用意されている、ト書き、陽子の独白、括弧付き、陽子・ピンスポが当たる。
陽子、私はかおるさんの客ともけいこさんの客とも寝たことがあるの、かおるさんとけいこさん、共にソファから転がり落ちる、「ドッヒャー!」、ラッパ音が鳴る、パーパッパッ、三幕、最高のお芝居、暗転、終、拍手喝采。