彼、と呼ぶにも適さない、
彼は、彼という言葉に含まれるどこか色っぽいものを有してはいなくて、
彼、ではなくて、江田、彼は、ただの、江田、

江田は、ずうっと江田で、
江田以外の形容の仕方が分からないほどに、いつの間にかの江田で、
江田っぽい、江田らしい、まるで江田のような、江田的な、
江田は、江田で、ずうっと、あの江田で、つまりは、江田で、


江田に長い間付き合っている彼女がいる事は知っていた、
みさきちゃん、という、色白で腕の細い、
その日はピンクのカーディガンを羽織っていたロングヘアの女の子、
わたしは仕事終わりでジーパンに綿生地のTシャツを着たままで、
右腕には昼間の会議でホワイトボードをめいっぱいに使った時についたであろうインクがちらほらと目についた、
更にその日は強風だったこともあり指定された六本木のイタリアンバルに着いた頃には、
わたしは港で漁船を斡旋するおじさんのような猛烈な髪型になっていて、
江田はわたしを見て呆れたし、
みさきちゃんは怯えるような笑顔で小さく会釈をした、
その日みさきちゃんが何かを喋っていた記憶は特になくて、
あれからしばらくして一人でそのことをなんとなく反省した、


江田がみさきちゃんと結婚すると聞いて、
わたしはお祝いの席にも駆けつけ、何度も二人に祝福の言葉をかけた、
みさきちゃんはいつ見ても可憐で華奢だった、
髪の毛の一本一本まで細く、
指でつまむとどんな形にもなりそうな柔らかそうな小さな鼻、
笑うと消えてしまいそうな細い目と、
その目に向かって垂れてくる眉が印象的だった、
みさきちゃんならきっとあの強風のなかを歩けなかったのではないかと思ったりした、
江田はわたしに接するようにみさきちゃんに接していた、
それが、江田が江田である所以であり、なんとも江田らしい、まさに江田的な所業だった、


わたしがすぐに電話をしたのは江田だった、理由は分からない、
江田とは地元の友達なわけでも、誰もが認めるような親友だというわけではないし、
江田のしている仕事だってあまりきちんとは把握しきってはいないし、
たぶん江田もわたしの仕事のことをさほど知らないと思う、

距離感、といえばあまりにも俗っぽいけれど、
言ってしまえばそういうことのような気がする、
常日頃から連絡を取り合ったりしょっちゅう飲みに行くわけではないけれど、
江田からの着信があればわたしはすぐに折り返したし、
江田からメールがきていれば、江田が喜びそうな文面をほんの少しだけ考えてから送ったりしていた、
逆もまた然りなことはなんとなく分かっていた、
距離感、という、得体の知れないものが、わたしと江田の関係の根幹だった、


江田はワンコールで電話に出て、
そんなに素早く反応されると思っていなかったわたしは、
まだ鼻水まじりの声で応えるしかなかった、
江田の声を聞くと余計に涙が出てしまって、
江田、江田、とだけたくさん言って、
江田の問いかけには特に応えず、江田、江田、と、繰り返し、
そしてとうとうそのまま電話を切ってしまった、


携帯の画面はすぐに江田からの着信に切り替わったけれど、
わたしはそれを見つめながら、手元を動かすことができなかった、
画面はしばらくして通常画面になり、
そしてまた江田からの着信画面になり、
またしばらくして通常画面になり、
それをずうっと繰り返していた、
わたしは携帯電話の電源を切った、


数日経って、仕事を終え帰宅してから江田にお詫びのメールを送ると、
すぐに電話がかかってきた、
一呼吸置いてから電話に出た自分の声は
自分でも情けなくなるほどにしらじらしい陽気な声色だったので、
すぐにわたしはそういうのはやめようと思い直して軽く咳払いをし、
事の顛末を江田に話しはじめた、


こんな年齢にもなって恋人、恋人と呼んでいいのかも分からない、
それでも四年近く付き合っていた人、
その人にあまりにも惨めな思いをさせられたこと、
もう二度と会わないという約束をさせられたこと、
それにまつわる、話す必要もなさそうなことまで、すべて江田に話した、
辛気臭くならないように、でもかえって痛々しくならないように、
話しぶりには細心の注意を払ったつもりだったけれど、
江田の淡々とした相槌を聞いていると、
そんなことをすることすら虚しく思えてきていけなくなった、


江田は呆れたようにわたしを叱った、
しょうもないことしてんなやと吐き捨てるように言った、
それがわたしのことを本気で心配し憂慮してくれてのことだということ、
いかにも江田的なアプローチ、

江田は怒っていた、わたしにも、彼にも、怒っていた、
わたしは耳たぶの少し近くで、憤る江田の声を感じながら、
ぼうっと、江田らしいなあと、他人事のように感心していた、


江田は俺ならそんなことせん、あほか、と、怒りながら言った、
それを江田がどういう気持ちで言っているのか、
それはもうずうっと前から分かりきっていたことで、
それはもう、ずうっと前から、お互いに、知っていたことで、
距離感、とごっつい達筆な文字で書かれた紙を貼った毛布に、
その紙が決して剥がれないように貼った毛布で、ぐるぐるに巻いてしまって、

あのイタリアンバルで江田とわたしは野球について延々と熱く語った、
その傍らで困ったように笑い続けていたみさきちゃん、
江田とみさきちゃんが別れてほしいなんて思ったことなんて一度もなくて、
わたしも江田のために彼と別れようなんて思ったことは一度もなくて、
でも、江田はわたしが好きで、わたしも江田が好きで、
恋人になるより、夫婦になるより、それは価値あるもののような気が勝手にして、
わたしたちは、そういう選択をして、
恋人になるより、夫婦になるより、そういう、よく分からない、勝手な、優越感で、
いかにも勝手な、本当に勝手で、



江田は、元気でやれや、また会おうと、電話を切って、
それがどういう挨拶かも分かってしまって、
でもわたしは、はいはいと、いつも通りを装った返事をして、

恋人になるより、夫婦になるより、
江田とわたしは、江田とわたしで、
江田とわたしでしかなくて、
彼と彼女でもなく、夫と妻でもなく、
江田とわたし、江田と、わたし、
そして、江田と、江田の、みさきちゃん。







江田くんは真波さんのことを出っ歯のブスだと言いきって、
そして、窓の外に顔を向けてたばこの煙を吐き出した、
でもわたしは江田くんが真波さんのことを本当は出っ歯のブスだなんて思っていないことは分かったし、
江田くんにとって、真波さんは、なにかが、真波さんだけ、特別で、
それは、なんとなくで、そして、絶対で、
だって、江田くんが女性のことをブスだなんて、そんなの、全然、似合わなかった、



真波さんはわたしを見てすぐに、かわいい、エーケービーにいそう、と言って、すぐにワインを頼み、
そしてしばらくしてから思い出したように自己紹介をした、

真波さんから渡された名刺の肩書きにはエグゼクティブデレクターと書かれていたけど、
それがどういう仕事なのかは見当もつかなかった、
真波さんはよく笑った、
鼻から抜けるように、んぬがはは、と、よく笑った、んぬがはは、んぬがはは、
歯は大きかったけれど出っ歯というほどではなくて、
痩せこけている頬は確かに口元を強調しているように見えたけれど、
ややつり気味の切れ長の目は大きくて、
鼻筋もぴんと、すうっと、通っていたし、
ブスだなんて、そんなことはなかった、
どうして江田くんはわたしに真波さんのことを、そんな風に伝えたのか、伝えなければいけなかったのか、
よく分からなかったし、よく分からないことは、考えないわけにはいかなかったし、

江田くんと真波さんはわたしの知らない野球選手の名前をずらずらと出し合いながら
プロ野球についてあれやこれやと言い合っていた、
真波さんは話をする時の身振り手振りが大きくて、
そのたびにわたしは彼女の腕やひじについているインクが気になったけれど、
わたしが指摘したところで、彼女は口をかっぴらき手を大きく叩き笑うだけで、
どうせわたしが神経質な女に見えてしまうだけだろうなあと、
真波さんの動き回る腕先を眺めていた、
だらしのないジーンズとよれたTシャツなのに、腕のインクは拭き取られていないのに、
目元の重ね塗りされたアイラインを、描き直された眉毛を、てかっていない額を、
ぼんやりと、眺め、んぬがはは、を、ぼんやりと、聞いて、んぬがはは、んぬがはは、


江田くんが真波さんのことを
水野だけは絶対にない、そういうんじゃない、
とか言うのが、すごく気持ち悪かった、
江田くんの口ぶりはまるで、なんとまあ、そう、まるで、何か、まるで、まるで、

水野にも彼氏がいるし、と、
江田くんが訳知り顔をしていることにも、わたしは不潔感を覚える、
江田くんと水野、江田と水野、江田くんと真波さん、江田くんと、わたし、
わたしは江田くんのことを、江田くん、と呼び続けた、
江田くんは江田くんだし、わたしたちは夫婦だけれど、わたしにとって、江田くんは、江田くんなのに、
わたしの夫、すなわち、江田くん、
それは、まるで、江田くんの、まるで、に、入り込めるんじゃないかと、まるで、そう、江田くんの、まるで、


江田くんがわたしの携帯電話を勝手に盗み見するようになったのは残暑が続く頃で、
江田くんは、わたしの携帯電話を、こっそりと見続けて、
わたしは、それに、気づかないふりをし続けて、
そして十月になったところだった、


江田くんは泣いていたし、結婚したとこやのになんでやねんと、唇を震わせた、
江田くんは怒ることができたし、泣くことができた、
わたしは、江田くんが怒ることのできる、泣くことのできる、ことを、した、
でも、わたしは、江田くんのしていることに、
怒ることもできないし、泣くこともできない、
江田くんは、正しい、江田くんは、間違っていない、
江田くんはいつもそうで、江田くんはいつも間違っていなくて、
江田くんと、真波さんに、わたしは怒れないし、泣くことができない、責めることもできない、
それが要因じゃない、そんなことじゃない、
真波さんのことなんて、どうだっていい、
夫婦に成り下がってしまったと、江田くん、あなたは、きっと、そう思っている、
江田くんは、思っていないと言うけれど、でもきっと、
わたしのことを、妻に、成り下がったと、そう思っている、
わたしだって、江田くんの手の届かない人でいられたらよかった、
ずっと、江田くんが、心のどこかにわたしを置いて、ずっと、憧れ続けてくれるような、そんな人で、ありたかった、

でも江田くん、わたしは、江田くんと結婚して、江田くんの妻になって、
江田くんがノスタルジックになった時、わたしは江田くんからとても遠いところにいて、
江田くんが現実から逃げ出したくなった時、わたしは江田くんの逃げ出したい現実のなかにいて、
わたしだって、江田くんの、そういう人で、ありたかった、
ふと江田くんが思い出す女性のなかに、いたかった、
でも、わたしは、江田くんの妻になった、
江田くん、江田くん、江田くん、それって、まるで、江田くん、
夫婦であることよりも、もっと価値のある男女の関係があるかのような、
まるで、そんな口ぶり、江田くん、わたしは、江田くんの、なんなんですか、


ひとしきり泣き終えた江田くんに、
わたしは何も言わなかった、
どうして、なんで、と、言われても、
自分でもよく分からないことで、
それらしい理由を言ってあげることもできたかもしれないけれど、
なんにも言わなかった、
だらしなく足を伸ばしたままたばこに火をつける江田くんのことを、
わたしは、どう思えばいいのかも、分からなくなっていた、
ライターがカチッと鳴って、カチッと、鳴って、んぬがはは、カチッ、んぬがはは、んぬかちっ、んぬかちはっは、んぬがちゃんがちゃん、んぬぬぬんぬ、

江田くんのしていることに、
わたしは、立ち尽くし眺めるしかできない、
怒ることも、泣くことも、責めることも、やけになることもできず、
ただ、眺めるしかできないこと、
見せつけられ続けていくこと、
んぬがはは、んぬがはは、真波さんを見つめる江田くんを、
見せつけられ続けていくこと、んぬがはは、真波さん、んぬがははの間の、江田くん、
んぬがはは、江田くん、ライターをつけて、んぬがち、真波さん、んぬがはは、
みさきちゃんたばこ吸われて嫌でしょう、んぬがはは、あんた家ではたばこ辞めなよんぬがはは、ライター、たばこ、
おまえもたばこ吸いすぎやろ、んぬがはは、真波さん、真波さんのたばこ、んぬがはは、真波さんのライター、んぬがち、江田くん、んぬがちしゅぽう、んぬがはは、んぬがちゃんぬがちゃん、江田くん、んぬが、んぬがち、んぬがちゃ、きたない腕、んぬがはは、真波さんの、きたない腕。







エダ @Eda_01eda02       9分前
FXってマジ儲かる?
やってる人おしえて~{(-_-)}