179 インターネットが拡大した結果、本も音楽も商品ではなくなってしまった!?
201500305
久留米地名研究会 古川 清久
古代史、その探求の手段の一環としての「神社考古学」に偏重した小論を書き続けてきましたが、切りがないこともあり、たまには目先を変えなければいけないと 考え、さすがに、芸人とおかまと外人とハーフだけで作られる(創造物ではないのでこの文字で十分)安物の地上波番組や民放や国営放送のイカサマ、デマ報道には流れませんが、最近は、本を読むためだけの日とか、音楽を聴くためだけの日…を設けるようにしています。
そのうち、十年やめていた釣りも復活させようと準備中で、合間合間に、釣具の修理や手入れに時間を割いています。
気分転換を意識的に行ったのではないのですが、あまりに単調になるのも良くない事から、昨日は、画像と音楽が一体化したユーチューブでもっぱら古いロックとかアルゼンチン・タンゴとかジャズばかり探っていました。
アストル・ピアソラや小松亮太は勿論聴くのですが、本当に好きなのは1930~40年代の歌の入ったアルゼンチン・タンゴ(フリオ・デ・カロ、オスバルド・プグリエーセ、カルロス・ディ・サルリ、カルロス・ガルデール、メルセデス・シモーネ… )といったところで、こちらは余りにものめり込みそうなのでほどほどにして、専ら、1960年代のロック・シーンを拾っていました。
私は、ハーマンズ・ハーミッツとかビーチボーイズといったたあいもないアメリカン・ポップスからビートルズに流れ、さらにヤードバーズ、クリーム、ジェフ ベック・グループ、そしてレッドツェッペリンへと移行する、ブリティッシュ・ブルースからブリティッシュ・ロックのまさにロック全盛期に嵌ってしまった世 代でしたが、不思議なことに、ロックで、今、聴いているのは最後に王者になったストーンズの特に後半の作品だけになっているようです。
当時の私は人と同じものは嫌で、ロックでも一般の人が全く目を向けないような、前衛ロックとかプログレッシブ・ロックといったものに夢中になっており、夜行列車で大阪(梅田東通り商店街の某レコード店)まで買い出しに出かけ、ラーメン屋でバイトした金を注ぎ込み10枚も20枚も買って帰っていました。
中でも、特に嵌ったのがドイツのロック・グループのAMON DÜÜL Ⅱ(アモンデュール・セカンド)でした。
その前身であった アモン・デュール(Amon Düül)は、1967年にドイツ(当時は西ドイツ)のバイエルン州ミュンヘンで生まれたロックのバンドで、政治・芸術のコミューン(共同体)を形成し、かなり攻撃的な政治的メッセジを流していたのですが、そこから、より音楽に純化したグループとして分裂したのがこのバンドだったのです。
アモン・デュールという言葉もエジプトのアモン神=太陽神とトルコ語のデュール=概念を組み合わせて造られたもので、これだけでも彼らの性格が多少は垣間見える思いがします。
AMON DÜÜL Ⅱは、一応、ドイツのサイケデリック・ロック・グループといえそうですが、クリス・カーラーとジョン・ヴァインツィエルが中心になっていました。
結局、十年間活動し1979年に解散するのですが、なぜか1990 年代に復活したと聞いていました。
Luzifers GhilomやKanaan といった曲に夢中になり夜通し聴いていたのですが、日本では、輸入盤も含めれば、古巣のAMON DÜÜLと併せ、10枚ほどのアルバムが出されたのではないかと思います。
現在、ネット検索すると、・・・
日本ではタンジェリン・ドリーム、ホークウインド、クラフトあたりまでは比較的知られていますが、 アシュ・ラ・テンペルやAMON DÜÜL Ⅱとなると、極端に知る人が少なくなり、結局、人と違うものを求めようとする感性が自らの孤立と興奮をもたらしていることに気付かされるのです。
ただ、驚かされるのは、そのマイナー極まりないAMON DÜÜL Ⅱでさえも、今や、ユーチューブによって無料で聴くことができる情報環境になっていることです。
試しに、yahooでもgoogleででも「ユーチューブ」を開き、「AMON DÜÜL Ⅱ」と入力さえすれば、直ぐにLuzifers GhilomやKanaanといった曲を聴くことができるのです。
今や、夜行列車で輸入版を買いに行っていた事が何だったのかと思うばかりであり、給料のかなりの部分を注ぎ込んでいたことが夢のようではありませんか(Ensuenos)。
してみると、たとえほとんど収入がなくても、多少の知識を持ち、感性さえ鍛えれば、結構、仙人の様な孤高な快楽は得られるものなのです。
と、ここまでは前振りで、短いのですが本題に入ります。
こ のように、手軽にネット上から欲しい音楽とか文章とか研究が手に入るようになってくると、最早、パソコンを使えない、若しくは懸命にも使わないとする哲学 をもったコンシューマーならいざ知らず、通常の凡人たる我々にとっては、既に、通常の音楽CDとか文字だけの出版物(本、写真集、画集、楽譜…)の一切が 商品ではなくなっていることに気付かされるのです。
一 般国民の所得の半減はアメリカの要請で、小泉、竹中がやったことですが、既に、百円均一で生活し、車にも乗れる経済力さえも奪われた未来なき若者達を思う 時、彼らが数千円のハード・カバーの本やCDやDVDを買えるはずがないのであって、勢い、ネット上に流出している安物の本や中古CD、無料の音楽ソース に触手が向かうのは如何ともしがたい事であり、奇麗事を言うのは勝手ですが、既に出廻っている無料の商品、ソースから選択し、その中から流行の音楽家、作 家、アーティストといったものが登場するだけの事であり、報酬などなくても良いから好きな曲を作って聴いてもらいたいというボランティア・スピリテュアル を持った人だけが商業的にも成功する状態になってしまっているのです。
つまり、現在まで商品と思われてきた書籍、CDの一切が商品ではなくなりつつある現実を認識せざるを得ないのです。
現 在、商品となっているのは、ギリギリ映像と音楽が一体となったDVD、今後は、会員制でネット配信されてくる、立体型映像、立体型音声、振動まで付帯し離 れたところにいるパーティ形式のラインで繋がった共感できるタイプの新型メディアといったものしか商業性を持たない時代に突入して行きつつあるのではない かと思うのです。
最早、新聞が良い例で、本当の事を書かない大手新聞社の記事を隅々まで読むなどという事に一切価値は無い訳で、ニュースはネットで最新情報が無料で配信されている状態では、既に新聞には新聞「紙」以上の価値はなくなっているのです。
良く「新聞はただの情報ではなく一定の時間を置いて解釈、分析が行われて送られてくる価値ある知恵」などと聴いた風な話をする人がいますが、原発報道を見れ ば一目瞭然であるように、本当に大変な事が起こった場合は一切報道せず、どうでも良いような対象が弱い立場ならば、「カイワレダイコン騒ぎ」のようにバッ シングに入る程度の事しかやらないのが大手新聞だからです。
新聞社も広告収入の問題から購読者数を過大に水増しして報道していますし。早晩、大相撲を見る人間が消えるのと同様に、新聞を買って読む人などという風習は消えて行くことになるでしょう。
戦前も朝日と読売は戦争を煽り、販売競争を行いましたが、孤高を守った「毎日」は追い落とされ、戦後もアメリカの手先(正確にはCIAの日本工作新聞)と なった「読売」が原発推進の旗振り役になったのでした。真面目に真実らしい報道をした毎日新聞は戦後もセックス・スキャンダル捏造により西山太吉事件で潰 されたのはご存じの通りです。
植草一秀氏も郵政民営化を巡る一連の動きの中で同じ手法で潰されましたが、ネット上では、竹中某氏は日本の国富をアメリカに売り飛ばす役割を果たして数千億のバック・リベートを貰ったとの噂が流れているのです。その植草潰しに協力したのも大手マスコミだったのです。
結局、本当に伝えるべきものは何も伝えず、どうでも良い事を書き立てるのが新聞である以上、価値は一切ないのであって、ネット上のニュースを起点に、情報操 作がされてない真実を自分で探しだすしか方法がないのです。既に新聞は商品ではないのであり、民放は元から商品ではなく広告収入で運営された
チラシ程度のものなのです。早晩、雑誌、書籍も商品ではなくなることでしょう。