柳生但馬守宗矩という剣豪は、日本の剣術家の中でも特異なお方で御座います。
と、いうのも彼は「誰かと戦ってこれを打ち破った」という記録が少ないのですな。
唯一の彼の戦いの記録は大坂の役の時、徳川秀忠を暗殺しようとした豊臣方数十人と一人で切り結び、
これを散々に打ち破り追い返した、というものなのだとか。
この時秀忠の周りには宗矩一人しかおらず、正に絶体絶命のピンチでありましたが、
宗矩は「人を斬るとはこの事で御座います」と余裕綽々だったと伝えられているそうな。
しかし同時代の、例えば宮本武蔵なんかと比べるとエピソードが少ないのも事実。
これは宗矩の実戦経験の少なさ、ではなく。
彼の剣術観によるものだとも謂われているそうなのです。
【柳生宗矩の剣術観】
柳生宗矩は他の剣術家とは少し違った剣法観の持ち主だったようで御座います。
この時代、「剣は殺人の道具、強さこそが身上よ」と剣術家が修行に勤しむ中、
宗矩は「剣は殺人の道具なぞでは無い!」と考えていた様で御座います。
何故そんな考えを持つに至ったのかと言うと、
彼の父・石舟斎の影響が大きいと言われているそうな。
石舟斎は新陰流の二代目だった訳ですが、
陰田を咎められて全財産没収の憂き目に遭いすっかり意気消沈してしまったらしく。
「あぁ、剣術ってものの役にたたんなぁ・・・」
なんて言っていたらしいのですな。
更に時代は既に剣術を過去の遺物にしようとしていたのです。
新兵器・鉄砲の導入や大砲の存在などが、
元々戦場の主戦力では無かった刀を更に時代遅れにしていたのです。
最早剣術は「やっておくとちょっと便利」な技術に成り下がっていた、とさえ言われておるそうな。
そして時は正に太平の世の幕開けでもありました。
平和な世の中において殺人術でしかない剣術がどうして持て囃されましょうか。
そんな剣術をみて宗矩は、非常に大きな焦りを感じていたのではないか、と思います。
宗矩は剣術の修行によって恐らく剣術に対して深い愛着を感じていたでしょうし、
その剣術が時代遅れの役立たずとして忘れ去られていく未来は、到底受け入れ難いものであったと思います。
多分宗矩は、宮本武蔵や小野忠明なんかが頑張って修行し、
己が最強であると豪語しているのを、
かなり冷めた目で見ていたのでありましょう。
「成るほど、確かに彼等の技は強い。でもそれが何の役に立つのだ?彼等を殺そうと思えば簡単な事だ。人を雇って、鉄砲を持たせればいい。100人もいれば彼等は虫の様に死ぬであろう。剣術は殺人術としてもう意味を成さぬ。その強さを競うなんて何の意味も無い事では無いか」
と、こんな事を思っていたのではないでしょうか。
しかしそれでも尚、宗矩は剣術家であり、
剣術を後の世に生かしてやりたい。仮に剣を圧倒的に上回る殺人術、例えば掌の大きさの銃や一発で何百人と殺せる大砲、なんかがあっても剣術が必要とされる・・・。
そう、柳生宗矩の人生はこの為にあったと言っても良いでしょう。
この後、宗矩は剣術のその意味・存在の改革に乗り出したので御座います。