さて、今回は番外編で御座います。
折角関ヶ原の戦いに話が進んだのですし、ここで一回徳川家康の戦上手についての小話をしたいと思います。
徳川家康が戦争の名人であった事に異論は無いのではないでしょうか。
何しろ彼はその技術・戦術で天下を獲ったので御座います。
しかして彼はどの様な点で優れていたのか?という疑問を、彼の戦いや、
徳川家康の手腕が大いに発揮されたとされる関ヶ原の戦いのお話から探っていきたいと思います。
【海道一の弓取り・徳川家康】
徳川家康は初陣の寺部城の戦いより始まり様々な戦を経験してまいりました。
その戦績から彼は海道一の弓取りと称されるようになりました。
そんな彼は「城攻めの秀吉、野戦の家康」と言われているとか。
誰が言い出したのかは定かではありませんが、確かに彼のその人生を見れば、「野戦の家康」という評価もうなずけましょう。
初陣の後の今川家での戦い、今川義元亡き後の対今川の戦い、一向一揆、姉川の戦い、武田信玄との戦い、その子勝頼との対武田の戦い、秀吉との小牧長久手、天下分け目の関ヶ原、そして徳川の世を確定させた大阪の陣・・・。
危うく命を落としかけた三方ヶ原の戦いの後は全戦全勝の勢いは確かに「家康は野戦において才があった」と言われても不思議ではありませぬ。
ありませんがしかし・・・。
本当にそれが家康の正しい姿なのでありましょうか?
最早それを確かめる術はありません。
なにしろ今から400年も前の事。資料だけで探るのは不可能で御座います。
しかし、それでも推測事態は自由のハズ。
果たして海道一の弓取りには、どの様な話があるのでありましょうか。
【家康の求心力】
徳川家康は松平一党を率いておりました。
三河の松平党は「犬の如く」と言われるほど忠誠心が高く、家康を大いに助けたそうな。
反面、頑迷な一面も併せ持っていたらしく、家康はその心意を図るのに苦心した・・・という話は有名であります。
そのせいか、彼の戦い方には一つ筋の通ったものがある、とか。
家康は、己の行動が他者に与える影響というものを考慮していた、と。
例えば一向一揆の際、彼は謀反を起こした部下を「戻ってくるならお咎めなし」として分裂をさけようとしたり、
三方ヶ原の時にも武田信玄に敵わないと半ば承知の上で出撃しました。これは「徳川家康が武田信玄を恐れた」という話が広まる事の影響を考慮したのだとか。
更に彼は、戦争に際しては城砦を重視していたのだとか。
織田・徳川連合対武田勝頼の戦い、長篠の戦いにおいて酒井忠次に命じて敵の砦を攻略し長篠城包囲網を瓦解させ、その後の高天神城の戦いにおいては高天神城の周りに次々砦を築き包囲網を完成させたとか。
無論当時この様な戦術が珍しかった訳では無いでしょう。
しかし家康の性格から考えるに、これらは敵への心理的な圧力を狙ったものだと考える研究者もいるようです。
心理的な影響を考える家康であるからにして、その次の戦法は敵の切り崩し、つまり調略を多用したという話もうなずけましょう。
彼の記したとされる書類は実はけっこう少ないようですが、同一人物への多数の報酬支払書があるという事から、彼が調略を多用する人物だったとみる向きは強いのだとか。
以上の点から察するに、徳川家康の戦争での連戦連勝の裏には、
敵に対する心理的な圧力を掛けつつ、徹底的な調略を用いて敵の結束を瓦解させ、それにより自軍が圧倒的に有利な状態で戦を行えるようにする。
と、いうものでありこれが「野戦の家康」の噂を支えている舞台裏だと思われます。
要するに徳川家康と戦うということは、
家康は包囲網を狭めてきており、
しかも仲間の中に裏切り者が出る可能性が高い、
という訳である。こりゃ辛い。
そしてその家康の力量がいかんなく発揮されたのが、
関ヶ原の戦いと言われているのだとか。