関ヶ原の戦いにて勝利した徳川家康。
彼はその後、実質的統治者としてこの戦いの戦後処理を行いました。
まず西軍についた連中を軒並み減封、若しくは改易したそうな。
その数93家、改易は503万石!
更に自分に味方した元・豊臣恩顧の武将達を領地は増やしつつも転封して、
江戸の周囲を徳川一門で固めたので御座います。
その上徳川家は250万石の領土を400万石までアップし、
更に更に金山銀山の経営権まで手に入れたので御座います。
えげつねえ・・・。
この戦後処理には徳川家のパワーアップ以外にも大きな意味がありました。
これにより豊臣恩顧の武将は皆、徳川家から報酬を得たことになり、
必然的に徳川の支配下に置かれることになったので御座います。
そんな彼は遂に・・・・
念願の征夷大将軍に就任し、江戸幕府が始まったので御座います。
時は1603年の事でありました。
その力によって彼は、
諸大名に江戸城と市街地の普請を命じ、
国毎に国絵図と郷帳の提出を命じ、日本の支配者としての姿を見せつけたので御座います。
1605年、彼は突然将軍職を辞すると、
息子の徳川秀忠が将軍宣下を受け、
征夷大将軍は徳川世襲であると宣言したので御座います。(実はこれ以外にも意図があるとされているそうですが、それはまたおいおい・・・)
大御所として全権をふるう家康。
その残った悩みの種が、大坂の豊臣秀頼でした。
豊臣家は約60万石程度の一大名に転落はしていましたが、
豊臣政権期の残骸ともいえる権力が残っていたので御座います。
故に家康は、豊臣家が徳川家に従うのか、それとも叛意があるのかを
見極めねばならない!と思っていた様で御座います。
そんな家康に絶好の機会を与えたのが、
京都方広寺の鐘名事件でありました。
これは今まで、徳川家によるでっちあげとされておりましたが、
最近は、本当に豊臣家の大失態であったというのが定説になっているとか。
これについては 番外編でお話致します。
豊臣家に踏み絵を迫る家康!
果たしてどうなるので御座いましょうか。
話者 大宅世学