日々是学ぶ! -23ページ目

日々是学ぶ!

歴史は糸玉のようなもの、とわたくしめは思っております。
歴史はありとあらゆる出来事が絡まって出来上がる物でどの糸を辿るかで糸玉の色は様々に変化致します。
わたくし大宅世学、未だ未熟者ながら皆様と歴史を観測し語り合いたく存じます。

関ヶ原の戦いにて勝利した徳川家康

彼はその後、実質的統治者としてこの戦いの戦後処理を行いました。

まず西軍についた連中を軒並み減封、若しくは改易したそうな。

その数93家、改易は503万石

更に自分に味方した元・豊臣恩顧の武将達を領地は増やしつつも転封して、

江戸の周囲を徳川一門で固めたので御座います。

その上徳川家は250万石の領土を400万石までアップし、

更に更に金山銀山の経営権まで手に入れたので御座います。

えげつねえ・・・。

この戦後処理には徳川家のパワーアップ以外にも大きな意味がありました。

これにより豊臣恩顧の武将は皆、徳川家から報酬を得たことになり、

必然的に徳川の支配下に置かれることになったので御座います。

そんな彼は遂に・・・・

念願の征夷大将軍に就任し、江戸幕府が始まったので御座います。

時は1603年の事でありました。

その力によって彼は、

諸大名に江戸城と市街地の普請を命じ、

国毎に国絵図郷帳の提出を命じ、日本の支配者としての姿を見せつけたので御座います。

1605年、彼は突然将軍職を辞すると、

息子の徳川秀忠将軍宣下を受け、

征夷大将軍は徳川世襲であると宣言したので御座います。(実はこれ以外にも意図があるとされているそうですが、それはまたおいおい・・・)

大御所として全権をふるう家康

その残った悩みの種が、大坂の豊臣秀頼でした。

豊臣家は約60万石程度の一大名に転落はしていましたが、

豊臣政権期の残骸ともいえる権力が残っていたので御座います。

故に家康は、豊臣家が徳川家に従うのか、それとも叛意があるのかを

見極めねばならない!と思っていた様で御座います。

そんな家康に絶好の機会を与えたのが、

京都方広寺の鐘名事件でありました。

これは今まで、徳川家によるでっちあげとされておりましたが、

最近は、本当に豊臣家の大失態であったというのが定説になっているとか。

これについては 番外編でお話致します。

豊臣家に踏み絵を迫る家康!

果たしてどうなるので御座いましょうか。

                       話者   大宅世学