さて、柳生宗矩は父・柳生石舟斎の力もあって徳川家への仕官が叶いました。
さぞや柳生一族の名も高かろう・・・と思いきや、この時柳生一族は苦境の中にあったのです。
柳生家は柳生の里を支配する一族だった訳ですが、
豊臣家の検地の際、なんと陰田(隠し財産)が露見してしまうのです!
で、怒り心頭になった豊臣秀長によって、
柳生の土地を全て没収されるという憂き目に遭っていたのです。
剣聖と讃えられし上泉信綱より新陰流を伝えられ、
名実共に最強剣士と言われていた柳生石舟斎も時の権力には勝てなかった訳で御座います。
当然柳生一族の長としての石舟斎の面目は丸潰れ。
息子に対して「儂が死んだら茶道具を売って葬式代を出してくれ」なんて弱音を吐く始末・・・。
石舟斎の歌った和歌に
兵法の 勝ちを取りても 世の海を
渡りかねたる 石の舟かな
というものがあるそうですが、この時の石舟斎の心境が現れているのではないでしょうか。
つまり柳生宗矩はこの時、新陰流どころか柳生一族の運命すら背負って仕官した事になるのかもしれません。
そんな宗矩ですが、出世のチャンスを得たのが関ヶ原の戦いでした。
この時宗矩と石舟斎は家康より
「大和の豪族を従えて石田方の後方攪乱をしろ」
という使命を見事果たし
遂には柳生一族の土地を取り戻し、
更に宗矩は秀忠の剣術指南役として千石で召し抱え、という剣士としては垂涎の地位に就いたので御座います。
この時の宗矩の心境は解りませんが、
この後の彼の生き様を見る限り、恐らくこの様な待遇に対して満足はしていなかった、と言えるのではないでしょうか。
と、いうのも彼は既に剣術の限界を悟っていた節があるというのです。