前回の続きで御座います。
秀吉は秀頼の為に家康をいわば蓋として内大臣に据えました。
しかしこれは新たなメンバーが(つまりは内大臣の経験の無い者が)関白になる事は封じれますが、
かつて内大臣を経験した者を封じる事は出来ないので御座います。
ここに気付かない五摂家では無かった。
で、これは私の想像ですが、五摂家サイドから家康に対してかなりのアプローチがあり、
なんらかの交渉がまとまったのではないか・・・と思われます。
五摂家からすれば自分達の関白への特権が守られるのであれば、
家康が征夷大将軍になるのは構わない、というのが本音であり、
とすれば家康に対して自分達の動きを邪魔しないよう裏工作があったとしても不思議では無いと思います。
さて1600年、大臣以上が家康のみという緊急事態に朝廷は、前右大臣菊亭晴季を右大臣へと戻します。
菊亭・・・と言えば親豊臣家で娘を秀次に嫁がせたら、娘を殺された上に越後に追放された秀吉の被害者みたいなお方。
遂に彼は反豊臣家の尖兵として帰ってきたので御座います。
この菊亭晴季の復任に抗議が無かったことから、
秀吉の遺言は反故になったとしてなんと関白が復活するので御座います。
関白→九条兼考
太政大臣→廃位
左大臣→九条兼考
右大臣→菊亭晴季
内大臣→徳川家康
これには豊臣家も抗議したと思われますが後の祭り。
1601年には近衛信輔が左大臣となりました。
何故か?
これは秀頼がいよいよ内大臣になりそうだったからで御座いましょう。
さてここで家康の身の振り方は辞任か昇進しか御座いません。
しかし家康にここで降りられるのは五摂家としては都合が悪い。
そこで朝廷は1603年、
家康を征夷大将軍とし、これにより右大臣に昇進させたので御座います。
こうして空いた内大臣に秀頼がおさまりました。
そして1604年、
九条兼考が出家して関白を辞任。
更に徳川秀忠が将軍になり内大臣になり、秀頼は右大臣となりました。
この中で近衛信輔は関白に就任しました。
そしてこの瞬間、
五摂家の待ち望んだ秀頼殺しの布陣が完成したので御座います。
どういう事かと言うと、この後秀忠は内大臣を辞任。
すると、
関白→近衛信輔
左大臣→近衛信輔
右大臣→豊臣秀頼
内大臣→鷹司信房
1606年、五摂家メンバーの鷹司家から内大臣が出ると、
この二か月後に近衛信輔は関白及び左大臣を辞任し、
後任として鷹司信房が関白及び左大臣に就任したので御座います。
そう!
秀頼殺しの秘策、即ち秀頼を右大臣に置いておき、内大臣と左大臣を五摂家メンバーで固める事で、
永遠に関白を五摂家で独占出来るという体制を作ったので御座います。えげつねえ。
しかしてまだ秀頼にも関白になる可能性がありました。
つまりこの布陣は関白=左大臣が急死した場合秀頼の関白宣下があり得る、という危険性があったので御座います。
そこで五摂家は秀頼の朝廷追放を目論見ます。
そしてその策は、なんと内大臣を置かない、というもの。
何故こんなことをするのか。
実は朝廷の会議(朝議)は大臣が仕切るのですが、
関白は朝議に参加しない為、
朝議を仕切れるのは当然右大臣秀頼のみ。
しかし秀頼は京都に来なかった。
そこで「朝議に来ない秀頼が右大臣に相応しいんでおじゃるか?」とか言って、
秀頼は1607年に右大臣を辞任しているので御座います。
こうして五摂家の悲願は達成されました。
関白就任への道が断たれた秀頼には最早全国の武士を纏める権威を得るのは難しくなり、
征夷大将軍たる徳川家に臣従するか。
もしくはこれと戦って将軍になるか。
二つに一つとなってしまったので御座います。
話者 大宅世学
今回は色々なところを調べて書きました。
いやあ、歴史と言うのは深いものです。
家康と秀頼が争っている間、
その裏では貴族達の策謀が巡っていた・・・・。
歴史とは実に面白いもので御座います。