これはまたハッシー君ネタである。
ハッシー君は執拗に熊本城にいちゃもんをつけていた。
そしてそれが漸く(?)一段落しようかという所である。
さてそれではまずハッシー君の発言から見てみよう。
【ハッシー君の発言のスケール・ダウン】
①石垣の反っていた件は当たらずとも遠からず。少なくとも清正は朝鮮に7,8年間も滞在していなければ、考え出されなかった技術だ。しかも、長年、朝鮮にいて久しぶりに日本に帰ってきていきなり新技術の武者返しを作り出すなんて、なんで朝鮮に行く前に編み出さなかったのだろうと思うのが全うな思考。
②石垣の話は、日本の独自の築城技術は認めます。しかし、「朝鮮の築城技術を導入した」と私が示した参考文献に載っています。また、朝鮮の建物の特徴は曲線にあるとも参考文献に載っています。石垣を朝鮮の技術を真似て独自に開発したということです。しかも朝鮮人に石垣を積ませるのを手伝わせています
③要するに清正の石垣は、日本の独自の石垣技術に、朝鮮の屋根の湾曲をみて、石垣に取り入れたということです。
さて皆様、この発言をみてどう思われるか。
まず話題がスケールダウンしている。最初彼は「熊本城は朝鮮の技術で造られた」と言っていた。ところが今や「朝鮮でヒントを得て日本の技術で造った」にスケールダウンしている。
うーん。まあどうにか妥当なラインに落としてきた・・・と言うのが私の感想で御座います。
だがこの過程で彼は多くの物を喪った。
まず彼は最初「清正は朝鮮の石垣を見て学んだ」と「文献に書いてあった」と主張していた。
どんな文献だったのか最早知る術はない。
しかしこれで分かったことがある。つまりハッシー君が読んでいる本は複数存在し、しかもその内容が全く異なるらしい。結論が同じにも関わらず、だ。
これは非常に危険な状態である。つまり諸説ある、という状態では最も有力な説以外は慎重に慎重を期さねばならない。さもなくばトンデモ説に引っかかる。
私もそのような説を紹介する度にヒヤヒヤしている。
彼が失ったもの、それは記憶である。
彼はこう書いている。「朝鮮に七年いなければ・・・考え付かなかったはずの技術だ」と。
ちなみに彼は前に見ていたはずなのだ。朝鮮には加藤清正が築いた武者返しの城、鳥山城が存在するのだ。築かれたのは慶長二年の事であった。
嗚呼、彼の記憶は朝鮮の石垣よりもボロボロではないか!
これは余りにも酷い。こんな酷い話はない。
熊本城が朝鮮の技術で造られた、と言っておきながらそれを論破された。その相手の説の内容を頭に入れないで「文献」に飛びつき「新事実」を思いつき挙句同じ言葉で論破されている。学習能力0だ。
もう熊本城の名誉については十分に語りつくしたと思うけれどもまた考えてみようと思う。
しかし考えるも何も彼の文献が判らない。何しろ「熊本城が朝鮮の技術で造られた」なんて何処にも書いてないのだ。
こうなったら私の妄想で埋めるしかない。
彼が見つけた文献とはなんなのか?
有力なのは「加藤清正の書いた日記」若しくは「熊本城建造の関係者の日記」であろう。
この中に「朝鮮の技術で造った」と書いてあったのではないか?
【想像力を働かしてみる】
現物を知らない以上彼の発言を待つしかない。
しかしもし上記の内容だったとして果たしてそれが正しいだろうか?という疑問が絶えない。
加藤清正とはどの様な武将だったか?彼は秀吉に心酔しており、彼の為に必死に働いた。しかし朝鮮出兵いて彼は辛酸を舐め尽くした。
餓え、渇き、仲間に裏切られかけた。そんな彼が最後の奉公とばかりに建造したのが九州最強の要塞、熊本城である。
熊本城は別名銀杏城とも言われている。銀杏の木が多く植わっているからだそうな。これは鳥山城籠城戦で餓えに苦しみきった経験から植えられたーと噂されている。(実際は銀杏の木は全て雄である)
しかし大量の井戸や、隠されている糧食が彼の人生を語っている。
彼は昔から城造りの名手として知られていたらしい。
その技術を彼は惜しみなく使ったわけだが・・・
果たして彼は城造りの秘密を誰かに伝えるだろうか?そして誰もこの秘密を知りたいと思わなかっただろうか?
そもこの石垣は何の為に造られたのか?
それはこの石垣が南西に向いていることからもわかるそうな。
加藤清正の最後の奉公、それは九州の大敵島津公を抑える事だった。
彼は万が一島津公が反乱を起こしたならば熊本城にてその進撃を止めようとしてこの城を築いた・・・と言われている。
ともすれば猶更彼はこの石垣の秘密を知られたくはなかったであろう。
もしこの秘密を島津軍に知られたら、いや、もし島津公の手の者が入り込んでいたら?
熊本城の周りを駆け巡った色々な噂、それは恐らくここらへんに理由があるのではないか?
まあ彼の文献が何かわからない以上すべては私の想像、妄想である。
つらつらと取り留めもないことを書いてしまった。
一つだけ私が、愚かな私が声を大にして言うならば歴史という物は非常に掴みどころのない存在故、その内容には気を付けなければならない、という事だけであろうか。
昔こう言う言葉を聞きました。「正しい歴史観というものは存在しない。歴史を語る時、その時には語り手のモラルが語っている」
正しい歴史なんてものはないのかもしれない。歴史について語る時は、その人間のモラル、倫理観にが判る。何故ならモラルが歴史を切り取って繋げているから・・・と。
故に私は歴史を勉強したいという人には迷わず教科書を勧めたい。
それが最も忠実に歴史を記しているはずだから・・・と。
大層長々と愚痴を言ってしまいました。お恥ずかしい。
最後に私のブログにて熊本城について書き込んでくれたお方のコメントを残したいと思います。おそらくこれが最も真実に近い物かもしれませぬ故。
話者 大宅世学
城郭研究をライフワークとしている者です。失礼ながら低次元の議論に陥っているようにお見受けしましたので、横から補足コメントさせて頂きます。なおこのコメントは、特定の方に対してのものではありません。
「古代山城」とか「朝鮮式山城」をご存じでしょうか?律令時代に当時の朝廷が、朝鮮半島の築城技術を導入して築いた石垣の城郭です。“本場”朝鮮半島では、古くは三国時代(4世紀)から朝鮮時代末期(19世紀)まで、連綿と築かれています。
なぜ残っていないのかと言った議論もあるようですが、ご存じないだけで今なお実に沢山の城跡が残されています。
ただそういった情報は、WEBサイトで検索しても、あまりヒットしないと思われます。なぜならインターネットの歴史自体が、まだまだ歴史の浅い媒体だからです。学術の蓄積は、やはり“紙の本”にはかないません。
私は朝鮮式山城の専門家ではありませんが、それでも釜山周辺でいくつかの城跡を踏査してきました。
もっと知識を深化させたいのであれば、大型図書館に足を運ぶか、日本考古学協会や古代山城研究会など、学会系の書籍交換会(本売り場)に行けば、色々な本が手に入ります。
ここで「武者返し」と呼んでいるのは、石垣の反りのことでしょうか?だとしたら蔚山倭城(鳥山城)には、石垣の反りはありませんし、築いたのは清正ではなく浅野です(これはネット上の誤情報です)。石垣に反りのあるのは清正が築いた西生浦倭城です。
石垣の反りは、倭城以前では天正後半~文禄頃に改修された但馬八木城(兵庫県)にも見られます。石垣にしろ縄張りにしろ、桃山時代前半に国内でプロトタイプが既に存在し、それが文禄慶長の役という実戦で鍛えられ、それが役後に国内に逆輸入されて近世城郭が完成したのです。
なお朝鮮半島の石垣は、反りも傾斜もほとんどなく、ほぼ垂直に積み上げるのが特徴です。
それから清正が朝鮮半島の石垣を見て熊本城を築いたなどと言うのは完全な俗説で、学術的には何ら根拠はありません